アルボムッレ・スマナサーラ長老インタビュー

ストレスを生み出す「貪瞋痴」 その1

  • このエントリーをはてなブックマークに追加
  • LINEで送る

――仏教で言う、基本的な心の汚れ「貪瞋痴[とんじんち]」の三毒は、具体的にどのようなもので、私たちにどんな影響を与えているのでしょうか。

自我にこの貪瞋痴の三毒が溶け込んでしまっている状態が、煩悩にまみれた我々の現実の姿です。わかり易く言えば、水があって、いくつかの成分がそこに溶けて別な飲み物になりますね。例えばコーヒーにしても、水があってコーヒーが溶けて、ミルクを足して、砂糖を入れてコーヒーということになります。

それと同じように、自我に「貪瞋痴」、つまり、むさぼり、怒り、無知が溶け込んでしまうのです。だから私たちはあまり水、自我の存在を意識できないまま、気にせず生きているのです。コーヒー、ミルク、砂糖の溶け込んだ水をコーヒーと思い込むように、貪瞋痴が溶け込んだ自我を自分と思い込んでいるのです。本当はコーヒーではなく99パーセント水なんですけどね。貪瞋痴の三毒に毒されているだけなのです。

科学的に言えば、コーヒー成分は1パーセントしか入ってないのに、水を指して「これはコーヒーです」と疑いもせずに決めつけています。「ほとんど全部、水でしょうに」と私からすれば言いたいわけです。だけれども、みな認めませんね。

貪瞋痴こそストレスなのです。そもそもなんで貪瞋痴があるかというと、自我、エゴのため――自分のことばかり考えるという思考パターンのせいです。と言っても、自我はみんなにあります、悟らない限りは。動物にもあります。ということはストレスのない人間はいない、ということになりますね。

――本来は水だけど、コーヒー、ミルク、砂糖を問題にして悩み苦しむということがストレスということでしょうか?

画像・AdobeStock

そういうことではありません。自我という水だけならストレスで苦しまない、という意味ではないのです。自我という水があるからこそ、いろんな汚れ(三毒)が溶けてくるわけです。だから、やらなければならないのは自我を捨てることなのです。そうすれば、もう他の成分が溶け込むことはないのです。何かの汚れ成分が溶ける水、自我をまず捨てること。捨てると言っても、自我という何かの塊をポイと捨てるわけではなくて、私たちがあるかのように勘違いしている「自我という錯覚・幻覚」を捨てるだけです。いったん自我が錯覚・幻覚だと発見したら、それまでの自我を張った生き方はもう成り立たなくなるのです。

――ところで貪瞋痴の貪は「むさぼり」、瞋は「怒り」。これが我々を苦しめることは理解しやすいのですが、痴つまり「無知」はどう理解すればよいでしょうか。何に対する「無知」なのでしょう。

「無知」というのは、我々は生まれたままの流れで生きていて、自己観察ができていないことを言うのです。勉強しなければと焦るばかりで、自分自身とはなんなのかということを全然調べようとはしない。そういう私たちの、根本的なダメな態度を指して無知というのです。

人間はどうしても見たものを自己都合で、主観で現象化して、正しく見たと思い込んでしまうんです。聞いた事は、私が聞いたんだから間違いない、と断定し固定的に見ちゃう。そういうふうに、事実をそのままデータとしてファイルしないで主観でねじまげてしまう。何一つ、ありのままに観察しないままで済ませているのです。

わかり易く言えば、無知とは、真理を知らない状態。ありのままの状況を知らないことが無知なのです。

誰もが食べる事であれやこれやと毎日忙しくて精一杯ですから、自己観察をしませんね。それもそのはず。生命が生きるということは、本当に大変なことなのです。呼吸さえもタダではありません。呼吸しなかったら死んでしまいますから。私たちは無意識に呼吸できている場合は心配しませんが、ちょっとでも呼吸困難に陥るだけで、たいへんな騒ぎになるでしょう。

我々は、臓器という機械をいっぱい体の中に持っていて、それをちゃんと起動させないと生きていけないし、瞬間たりとも呼吸を絶やすことはできません。だが、それを自覚している人は少ない。そんなことを言うと、「ご飯はきちっと三食たべていますよ」と言うかもしれませんが、身体の細胞は24時間ずーっと栄養補給が必要です。栄養と酸素が供給されなければ細胞は〝パチッ〟とはじけてしまいます。このように、生きるということはかなり危険を帯びたものなのです。私たちは身体の整理整頓、修復に、24時間かけています。寝るということも細胞を修復することなのです。だから余分な暇はないのです。

例えば、すごく流れが急で大きな川に落ちたとします。その人には何一つ考えている余裕はないはずです。「流されてしまうとたいへんだ」とか、ましてや「泳ぐのが得意じゃない」などと考えている暇はありません。川で溺れなくても、それぐらい精神的なストレスを毎日抱えながら必死で生きているのが人間なのです。これは赤ちゃんからお年寄りまでみんな一緒です。人間にとっては、それほど生きるということは大変で、忙しいことなのです。

無知を破るということは、自己観察してその状態に気づくこと、全ては瞬間、瞬間に変化するものだから、何一つ頼りにならない。何一つ自分を助けてくれるものはない、ということをまず明らめる(諦める)、真理に目覚めるということなのです。

  • このエントリーをはてなブックマークに追加
  • LINEで送る