対談

藤田一照 プラユキ・ナラテボー対談:「大乗と小乗を乗り越え結び合う道」 その1

藤田一照・プラユキ・ナラテボー
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はじめに

いつの頃からか、仏教には「大乗と小乗」のふたつのグループが存在するような認識を、我々は日常的にもつようになった。歴史を紐解けば、それは古代インドの菩薩思想の興起と前後しているようだ(*1)

また、テーラワーダ仏教に対する「劣乗(hīnayāna)」という呼称を用いた蔑視は、過去、残念ながらあったと言わざるを得ない。

しかしそのような行為の正当性は、歴史的事実とは大きくかけ離れたものに過ぎないということが、学問的成果(*2)を得た現代では、反省材料として多くの仏教徒を納得させるところとなり、今では、大・小乗、その真の融和に向けた取り組みが始まっている。

この対談では、道元禅師の大乗禅の法灯を継ぐ藤田一照師と、タイの上座仏教で出家した日本人僧、プラユキ・ナラテボー師を迎え、「いかにして大乗と小乗という仏教の一面相を乗り越え、手を結び合う道のりを実現できるのか」を伺った。

*1 大乗、小乗という呼称の歴史的背景については、以下をご参照ください。
石井公成『東アジア仏教史』岩波新書 34頁から
すなわち、部派仏教において「声聞乗」「独覚乗」「仏乗」の別が説かれ、これが般若経典の信奉者によって「仏乗」が「菩薩乗」に置き換えられ、「声聞乗・独覚乗・菩薩乗」と説かれるようになった、との記述に続いて、「……『小品般若経』では菩薩乗を「大いなる乗り物(マハーヤーナ)」と称し、声聞乗・独覚乗については「劣った乗り物(ヒーナヤーナ)」と呼ぶに至っており、これが「大乗」「小乗」と漢訳された」としている(13から15行目)。

*2 中村元・三枝充悳『バウッダ』小学館から
「小乗」の語は、大乗経典の発展史の中では、大乗の語よりも遅れて成立しており、大乗仏教の興起した最初期の時代には、対立する既存の伝統仏教を、大乗仏教側が「小乗(hīnayāna)」と名指しすることはなかった。
加え、小乗の語は、大乗経典が成立する過程において、その一部に考案されて用いられ、その指示対象も限定されていた。すなわち説一切有部のみを、もしくはその中の一派のみを「小乗」と呼んだことが、ほぼ論証されている。
小乗の語が出現した時代に「小乗」と名指しされた部派仏教が、これを自称したわけではなく、「小乗」という語が濫用されるのはごく特殊であるとして、三枝博士は大乗、小乗の学問的位置づけを決定している。

――まず一照さんに伺います。

日本テーラワーダ仏教協会のスマナサーラ長老と一照さんの対談本が出ましたね(『テーラワーダと禅』サンガ刊)。その中で一照さんは大乗・小乗の違いは「仏教に向き合う姿勢の違い」という主旨のことをおっしゃっています。

一照 僕が小乗という言葉を使う場合は、ほとんど、〝小乗的なメンタリティ〟に自分が陥らないように、という自戒の言葉として使っているし、小乗という言葉はそういう風に生かして使うべきじゃないかなと思っています。

放送禁止用語みたいにするのは現実的にちょっと難しいので、どういう文脈で使うかということを、使う人が自覚的にアップデートというか、よくよく注意する必要があると思います。

昔はね、大乗の人が自分たちの優位性を誇示しようと、小乗という呼び名を使っていたんでしょうけど、僕としては、もちろんそんなことはすべきではないし、反省して改めるべきことだと思っています。しかし「放送禁止用語」にするのはもったいないというか、たぶん難しいので、そうではなくて、新しく〝生かして〟上手に使う方向を考えた方がいい、と思っているのです。

――そういった背景には、すでに一照さんの中に、小乗、声聞や縁覚といったイメージが、既にあるのですね。

一照 ああ、そうですね。〝声聞的なメンタリティ〟とか〝縁覚的なメンタリティ〟という風に、聞いたり読んだりしたことを教条的に守ろうとする態度とか、自分の得た洞察に独善的に固執している態度とかを指すわけです。
僕はこれらの言葉を「メンタリティ」の特質を表す言葉として使っていて、特定の仏教の伝統やグループ、人間に対して「あの伝統は小乗だ」というようにジャッジメンタルな、価値判断の色濃い用語としては使っていません。

けれど、伝統的に、声聞・縁覚とか小乗という言葉が実際に使われてきているし、説一切有部(*3)の人たちへの批判を含んだ使い方をされてきたという伝統は確かにあるので、それを無くすというのはうまくなくて、今、現代でそれを使うとすれば、換骨奪胎とは言えないまでも、用法を変えて、〝自戒〟の言葉とするべきなのではないでしょうか。

なぜ大乗がそういう批判したのかということは、やはりきちんと押さえておく必要があるんです。うっかりすると、そういう小乗的なメンタリティに陥りやすいのがわれわれですから。

*3 説一切有部(梵: Sarvāstivādin, 巴: Sabbatthivāda)は、部派仏教時代の部派の一つで略称は有部。紀元前1世紀の半ば頃に上座部から分派したとされ、部派仏教の中で最も優勢な部派であった。
主観的な我(人我)は空だが、客体的な事物の類型(法)は三世に渡って実在するとしたことから大衆部や経量部と対立・批判を受け、今日の小乗、大乗仏教の淵源となった。

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