インタビュー

藤田一照 プラユキ・ナラテボー対談:「大乗と小乗を乗り越え結び合う道」 その2

藤田一照・プラユキ・ナラテボー
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――さて前回は、大乗と小乗とが、ただ握手をすればいいということではなく、どこがどう違うかを理解することが大切であるというお話がありました。その違いについて、どのようにお考えでしょうか。

一照 プラユキさんのお話を聞いていて思ったのは、修行のプロセス、あるいはスペクトラムで、小乗的なものから大乗的なものになっていく流れがあるということです。最初はだれしも個人的な悩みなどからダルマに入って行かざるを得ないから、やっぱり小乗的になりがちですよね。

小乗と大乗を定義しようとした場合、慈悲という概念を使うよりも、他から分離した「個(個人)」を自分が生きているか、あるいは逆に、他との「繋がり」を自分が生きているか、が問題となるのではないか、と僕は思っているのです。

つまり、

分離の世界を生きる=凡夫
繋がりの世界を生きる=仏

ということになります。

プラユキ 「分離」という視点は、凡夫のものの見方、考え方。いわゆる「妄分別」ということですね。

一照 そうです。自と他は分かれている、という妄分別を大前提にものを見たり考えたりしている。それを、凡夫の「分離のパラダイム」と呼んではどうでしょう。ここで言う「パラダイム」とは、ものの見方、考え方を支配する概念的枠組みのことです。

それが、小乗のメンタリティだと僕は思っています。言ってみれば「凡夫のビジョン」。いわば、凡夫の目に映った幻影の世界、ということです。

自分というものの見方が小さくて閉じているか、それとも大きく開いているかどうか。クローズかオープンか。それが小乗、大乗といった行動のパラダイム、ビジョンの違いだと思うんですよ。

仏教ってやはり、ブッダもそうですけれども、最初から「閉じていない自己」を生きなさいと言っています。それが僕にとっての大乗の理解です。

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