インタビュー

藤田一照 プラユキ・ナラテボー対談:「大乗と小乗を乗り越え結び合う道」 その3

藤田一照・プラユキ・ナラテボー
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——今回は大乗仏教の教義についての確認を、大乗禅の修行者である一照さんからまずご教示いただきたいと思います。

大乗経典の中には、

「一切衆生悉有仏性」「山川草木悉皆成仏」(涅槃経)

という言葉がありますが、これを大乗仏教を代表する、あるいはその教義の本質を語る言葉として理解してもよろしいでしょうか。

一照 そうですね。大乗の教義の特徴は、おっしゃるように大乗仏教版の「涅槃経」の中にある「一切」とか「悉(ことごとく)」という言葉に見ることができます。

道元さんの書いたものの中には、「尽一切」とか「尽大地」、「尽時尽界」など「尽」のついた言葉がたくさん出てくるんです。「尽(ことごと)く、尽(つ)くす」という言葉ですが、これは「無限」を相手にしている言葉です。それは、分離した「個(人)」への狭っ苦しい固執を乗り超え、解き放って、「無限」サイズの文脈にわれわれの存在を改めて置き直す、その時の〈体感〉、あるいはヴィジョンです。視野というか射程の無限さ、それが大乗仏教の本質、醍醐味だと、僕は思っているのです。

大乗の経典や論書では、こういう無限を表すような「一切」、「悉」、「尽」などを使った表現が多く使われます。ですからここには、思惟のサイズを最大限に広げようとする、大乗としての基本的立場がまずあります。大乗の大は相対的な大きさではなく、比較を絶した絶対の大きさ、つまり無限大の大なのです。

それともう一つの特徴として〈否定〉辞が多いということです。無限の「無」という言葉も否定辞です。「限(り)」が無い。他には「非」とか「不」という否定辞もあります。これも大乗の文脈では、単なる否定ではなくて、超越の意味として受け取った方がいいと思います。無限も、限りが無いというより、限りを超えているという風に。

人間はどうしても思考で、言葉で考える。言葉を使うということは、考えていることなのです。そこには限定ということが、どうしても入り込んでくる。線引きといってもいいです。言葉によって限定された世界を自分の周りに作り上げるために、それこそ言葉を駆使して思考する。我々の意識は、ふつうそちらの方向に向かって働いている訳です。

ところが大乗は、言葉によって限定された世界を乗り越えようとします。向かうべきは、意識の閉じられた世界の外側、閉じられた意識世界の外側への超越、開けです。意識というのは、かならず内向きに閉じる傾向を持っていますから。

——それは、前回お話しいただいた「つながり」と同義であると理解してよろしいでしょうか。

一照 ええ。しかも、空間的にも、時間的にも無限大のつながりなんですね。無限がわからないと大乗仏教はわからない。もっとも無限は、わからないからこそ無限としての価値を有するという、一種のジレンマが横たわります。だから無限を感得すると言った方がいいかもしれません。無限に触れて、ショックを受け驚愕する。大乗仏教の特徴というのは、無限というものの片鱗に触れていくところにあると理解していいと思います。南無阿弥陀仏という言葉は「帰命尽十方無碍光如来」という意味だとされていますが、それは無限なるものに触れるということですから。

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