インタビュー

藤田一照 プラユキ・ナラテボー対談:「大乗と小乗を乗り越え結び合う道」 その5【最終回】

藤田一照・プラユキ・ナラテボー
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——対談の5回目。最終回です。本日もよろしくお願いいたします。

さて、大乗仏教が大切にする「菩薩行」ですが、テーラワーダ仏教では「悟り」を重んじるが故に、「利他行」や「菩薩行」への関心が薄いと言う人もあるようです。しかし実際にはテーラワーダ仏教でも「慈悲の瞑想」などが重んじられているわけですから、そうとも言い切れません。プラユキさん、その点、いかがでしょうか。

プラユキ まず初めに、タイ仏教の菩薩的側面についてお話させていただかなくてはなりません。上座部の僧侶は悟りや涅槃を目指してひたすら瞑想行に励んでいるイメージも、いまだ強いようですが、それは事実ではありません。大乗の菩薩のように、社会問題や人々が直面する現実的な苦しみの解決に積極的に関わっていこうとする僧侶がタイにはたくさんいます。

実を言えば、私自身の出家の経緯もそういった僧侶たちの活動やその姿に魅了されたからに他なりません。もし寺に籠って瞑想三昧の僧侶たちばかりだったら、たぶんたいした魅力も感じず、出家にも至らなかったでしょう。私がそれまで見聞してきた日本の仏教やお坊さんたちの営み以上に、菩薩行的な考えや営みがタイの僧侶たちに見てとれたからこそ、私はタイのテーラワーダ仏教に惹かれていったのです。

ちなみに私が理想とする出家者像は、一人孤独に瞑想行に耽り、悟りの悦に浸っている姿ではありません。一切衆生を家族や友とみなし、彼らの幸せのため、そして社会の安寧のために一生懸命に働く姿です。そういったことを実際にタイの開発僧たちの生きる姿から学んできました。

特に惹かれたのは、そうした「利他」の活動をする中でも、無理をしていない、自然体でやっている感じがタイの開発僧たちに見受けられたことです。またそんな感じでありながら、他のどんな組織にも負けず劣らず大きな成果をあげていました。

昔も今も、私が目指しているのは、自身の苦の滅尽と、生きとし生けるものと共に幸せになっていくことです。仏教は内面の平安と現実世界の平和、双方を実現する教えです。それを学び、実践する場として、タイのお寺が私にはとても適していたのだと思います。

一照 聖徳太子が言ってたと思うんですが、飛鳥の昔から、日本のお坊さんたちがマイホーム化しているという現実がありました。小乗化というのは、いわばマイホーム化だと思います。それは、自分のいる此処を守りたいという意識、俺のマイホームを守りたいという感覚です。僧侶にとっては、全世界というか天地いっぱいがマイホームになるのが理想です。しかし、ともすれば、そこから部分を切り取って、此処はわがホームで、他の人は入れないというようなことになる。縄張り根性みたいな……。

「その4」でも紹介された、英・森林僧院のアチャン・ニャーナラトー師が、出家して間もない頃、先輩の日本人のお坊さんと東京から広島まで修行の一環として歩いて旅をされている様子がテレビのドキュメンタリー番組で紹介されているのを、たまたま見ました。そのとき「泊めてください」と一夜の宿をお寺に頼んで歩いたそうですが、ほとんど断られたというエピソードを語っています。断る理由に挙げていたのが「申し訳ないけど、ウチにはそういう場所がありません」ということでした。たとえお坊さんでも、他人を泊めるような場所はない。お寺は自分の「家」という感覚からなんでしょうかね。本来のお寺は公共のスペースで、修行している人たちのための道場だという意識がそこには全然ないようです。

そういう意味では小乗化している。否、仏教とも関係ないと言うべきでしょうか。職業に関わる限りでの仏教はあるけれど、自分は仏教を生きている、生き方としての仏教という自覚がないのではないでしょうか。だから小乗「仏教」とすら言えないかも知れない。

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