――誰もが食べる事に毎日忙しく手いっぱいですから、自己観察が出来ていないというお話をいただきました。それでも人は自己観察をするのではなく、何か外に向かって、救いとなるものを求めますね。
そうです。頼りになるものをきりもなく探し続けているのが人間なのです。一部の人びとが仏教に何を期待しているかというと、それは仏教が「助けてくれる」と信じているのです。実際のところ、仏教は助けてくれません。それは不可能です。
そうなると神に頼るということを始めます。またご先祖様たちに頼るでしょ。狐にもカエルにも頼るんだからね。それからパワースポットを探したりね。パワーストーンもありますね。はっきり言ってくだらないのです。
もし何かで人が助かったなら、我々に何か救いがあったのなら、携帯をみなが使っているように、科学的な発明品みたいに人類みんながそれを使うはずです。原始以来、狩猟採集生活の当時から探し続けているのです。救うもの、救われるものを探し続けている。それでも見つかっていないでしょ。なんで諦めないんでしょうか。そんなものは無いんです。
今は、量子力学や遺伝子工学の研究も十分進んでいます。ニューロサイエンスの進歩で、脳のはたらきは精密にすべて調べ終わっているでしょう。しかし、そのような研究成果から見ても、頼りになるものはないのです。なのに私たちはまだ探しているのです。それを無知と言わずして、何を無知と言うのでしょうか。
例えば大きい箱があって、立派そうに見えるから、必ず中には宝物があるはずだと思い込む。そう思って、箱を大事にする。「家には宝の箱がありますよ」と自慢して見せたりする。でも、幸せになれません。いよいよどうにもならなくなって「この箱を開けてみよう」ということになります。
そしてすごく苦労して、箱を開けてみた。けれどその中にあるのは、「くだらないガラクタ、ゴミ」に過ぎなかった。人類の歴史とは、この失望の連続なのです。科学の時代になってようやく、人類はそれまで大事にしていた宝の箱を開けてみることにしたのです。宗教が支配していた時代は、恐ろしくて開けられなかったのですね。
そしてついに科学者たちは、「命」という箱を開けてみました。全部を調べてみたけれど、宝物はなかった。物事はただ流れているだけで、それによりいろんなことが組み立てられている。真実はこういうことだった。しかしそれでも一般の人たちは、依然として宝物はあると思いたい、あると思っているのです。頼りになるものがどこかにあると思っている。いいですか。それが無知というものなのです。
――現代に生きる我々が、猛省しなければならない課題をいただきました。次回はさらに、ストレスとなる三毒の正体とその作用のからくりについてお伺いしてまいります。