――完全ということはあり得ないということですね。その事実を、もうすこし詳しく教えていただけませんか。
事実はこういうことです。例えば地球はエネルギー・バランスに欠けているからこそ、自転、公転しているのです。逆にバランスが取れると動きは止まってしまいます。これは地球の破滅を意味します。すべてはこのように不完全だから成り立っているのです。
種を植えて、芽が出るのは不完全だからです。種は不完全だからそのままではいられない。種にはやがて水が侵入してきます。空気も入り込んできます。種のままではいられなくなってしまったから芽を出すのです。これが自然の摂理です。大陽の光を木の葉が吸収する光合成も同じことです。葉っぱが太陽の光を受け取るのは、自分の中に何かが欠けているからです。足りない部分を吸収して栄養にし成長する。そしてやがて実れば枯れて死んでしまう。これらは不完全だからこそ成立することなのです。
みな不完全だから成り立っているのです。リンゴがもつ栄養も、リンゴの中で頑丈に守られ固定されているわけではありません。だからこそ人や動物が噛み砕いて食べることができ、リンゴの栄養を摂取することができるのです。もしもリンゴが完全なものだったら、我々にはどうすることもできません。食べることも不可能です。
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リンゴの皮はリンゴを守るためにできています。ところで、皮が完璧にリンゴを守ることが出来たとするとどうなりますか? どうやって切ったり噛んだりできますか。我々はどうやってリンゴを食べたらよいでしょう。リンゴは不完全だからこそ、食物としての命を全うできるのです。このように完全というのは、妄想と幻覚の中だけに存在するものなのです。
同じく自我というものも幻覚です。だからそれは一見、完璧たり得るのです。そして人々は、その自我という妄想を生きているのです。だから自我がある限り、人の喋ることはすべて間違いなのです。自我がある限り、人が見て認識することは、その通りではありません。自我がある限り、人が見聞きするものは、その通りではないのです。手前勝手に判断して、選別して、色分けして受け取っているからです。
たとえば我々には眼があります。眼は、自分で美しいと思うものを、勝手に探して見ようとします。しかし世の中はそう都合よく出来ていません。自分の眼には美しく映らないものでいっぱいです。自分勝手に世界を変えることはできません。そこで人は怒り出すのです。
耳は音に反応するように出来ています。自分の妄想世界、自我で、この音は好みの音、この音は好みでない音と、まず頭の中でプログラムを組んでおくのです。音を聴く以前に、自分のプログラムに合わせて選別し、聴覚がはたらくような仕組みを作り上げているのです。完璧と思い込んだ自我は、自分が美しいと思う音以外は聴きたくない。でも世界は世界、自然の流れで成り立っています。自分の好みの音だけではなく、好みでない膨大な音が聴覚を刺激します。それでまた人は怒り出す。可哀想な仕組みですよ。命というものは。
――ため息が出そうになりますね。しかしこれがお釈迦様のたどり着いた、テーラワーダ仏教が伝える人間の真実なんですね。本日も誠にありがとうございました。次回はいじめに伴うストレスについて伺います。
