“幸せ力”をつける

「お帰り」と手放しで迎えられる幸せ ―釈 徹宗―

相愛大学教授 浄土真宗本願寺派如来寺住職 釈 徹宗
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何千年も何万年も変わらない、
人間の根源的な喜びとはなんだろう──。

浄土真宗本願寺派如来寺住職 釈 徹宗

人は何かとつながっていたい

便利になれば、楽になれば、豊かになれば、幸せになれる——。
近代の日本人はそう信じて走り続けてきました。もちろん、衣食住といった基本的な部分が成り立たなければ、苦しいことは間違いないのですが、もはや「便利でラクなことと、幸せとはイコールではない」と、近代の物語に行き詰まりを感じている人も多いようです。

私は、人間の幸せを考える場合、自分自身の心身のバランスや、他者との関係性といったところに手がかりがあるような気がします。
たとえば、私たちは、何かとつながっている、という実感なしで生きていくことは困難です。
誰かと自分、場所と自分、宗教の世界でいえば、神仏と自分など、何かとつながっているという実感。それは、人間が本来的にもっている根源的な喜びでしょう。それは何千年も何万年も変わっていないと思いますね。

しかし、現代では、「自分というもの」が肥大化して、バランスを失ってしまっていたり、他者との関係性も、なんというか、うまく表現できないのですが、短くなっている気がします。

ぼくが住職を務めているお寺では、認知症高齢者のグループホームを運営していますが、こんなエピソードがあります。ホームのスタッフはみんなお寺の檀家さんなのですが、なかには、他では働きにくい、うつや統合失調症気味のスタッフもいます。彼らは出勤しても、何もしないでじっとうつむいていることもあり、認知症のおばあさんに、逆に「大丈夫か」と背中をさすられ、労ってもらうこともあるのです。

そんな状態ですが、彼らのお給料は他のスタッフと同じ額です。しかし、グループホームを開設して、8年以上になりますが、そのことで、文句を言う人はなく、もめたことはありません。

よく観察してみると、ウチのスタッフは、うつの彼の両親や祖父母のこともよく知っていて、これまでどんなに苦労してきたかもよくわかっている。そんな関わりのなかにいるので、「ああ、この頃しんどそうやな。ゆっくりしいや」という感じなんです。

理屈じゃなく、肌感覚的に、長いつながりのなかに生きていると、人々はちょっとしたでこぼこは、気にならなくなるのではないでしょうか。

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