人生に答えなんてない。
じょうずに諦めながら、自分なりに楽しんで何でもやってみればいい。
自分をなくすことから始まる真理
ぼくが『アウトドア般若心経』(屋外の看板から般若心経の文字を一字ずつ探し、写真に納めた新感覚の写経本)を著したきっかけは、「自分探し」という言葉が若者の間で流行り出したことにありました。
自分なんて、探すほど分からなくなるのに、たいへんな旅に出るんだなぁ、むしろ自分をなくしたほうが幸せなんじゃないか、と思ったんですよ。
そもそも自分って、都合の悪いときにしか出てきません。都合のいいときにひとつも出てこない自分を探しても仕方がない。それより、ゆっくりと自分の主張やポリシーを曲げていく。そうすれば、自然と自分はなくなります。
ぼくは、出来る限り自分を信じないようにしています。エライ人は「自分を信じろ!」と言いますが、「自分ってなに?」と思うと、明確な答えは出ませんからね。
たとえば、自分を信じているあまりに、自己主張が強くなって、他人と口論になったり、次々と問題が起こります。はなから自分を信じていなければ、人の話に耳を傾けられるし、素直にうなずけるし、まわりの人ともうまく付き合えるんです。自分を信じるから、自分と人を比較したりして。自分なんてたいしたことがないと思えれば、気楽です。
まわりの人にも「ぼくを信じないで」と言ってきました(笑)。それを徹底するために「I Don’t Believe Me」と書いたTシャツを作ろう、と思ったくらいです(笑)。
とは言っても、どこかでやっぱり自分を信じていないと生きてはいけません。「自分なくし」と言っても、最終的には完全に自分をなくせないことは分かっています。
でも、いま、自分は必死に自分をなくす過程にいるという事実が、とても大切だと思います。
末広がりで夢が広がる「自分探しをしている」のではなく、ラクになるために「自分なくしをしている」途中にある、ということを肝に銘じれば、煩悩が増幅しないのではないでしょうか。