それは二人の少女の体験実習から始まった
〝日本理化学工業の奇跡〟は、昭和34(1959)年、当時専務を務めていた大山泰弘現会長のもとに、東京都立青鳥養護学校(現・東京都立青鳥特別支援学校)のH先生が、卒業生の雇用を願いにやって来たことから始まった。
障がい者雇用の礎を築いた大山泰弘会長
当時、同社で働く障がい者はまだおらず、27歳であった大山専務の対応も、決して温かくはなかったという。
ところが断っても断っても、雇用を求めてH先生がやってくる。三度目の来訪時のことだった。H先生の言葉が、大山専務のこころに響いた。
「就職先がないと、卒業生はその後、一生施設で暮らすことになります。働く体験をしないまま、生涯を終えることになるのです。就職は諦めましたが、せめて何日かだけでも仕事の体験をさせていただけませんか? 生徒たちに働くということがどういうことか、一度でいいから経験させてあげたいのです──」
仕事とは、生計を立てる手段であると当時に、もっとも多く他者と接する場所であり、社会への窓口だろう。他者や社会から必要とされないということほど悲しいことは、おそらくない。そんな思いにこころを動かされ、大山専務は同校を卒業見込みだった15歳の少女二人の実習採用を決めた。実習は2週間との約束であったという。
最終日、意外なことが起こった。
チョーク工場で懸命に働く少女達を自分の娘のように感じたのか、女性従業員たちから、〝雇ってあげてくれませんか? 彼女たちの面倒は私たちが見ますから〟そんな声が上がったのだ。
困った大山専務が父である初代社長の大山要蔵さんに相談すると、ここでも意外な言葉が返ってきた。
「知的障がい者を雇う。そんな会社が一つぐらいあってもいいんじゃないか」
少女たちの仕事ぶりにも、驚かされた。
始業の1時間も前にやってきては、会社の玄関が開くのを待っているのだ。
このときの大山専務の感慨を、同社を描いた小松成美氏の著書『虹色のチョーク』(幻冬舎刊)から引用させてもらおう。
『福祉施設にいたほうが、楽で、幸せで、守られている。そう思っていた私は、なぜ彼女たちが懸命に働くのか、不思議でなりませんでした。当時は、彼女たちにとっては、労働=苦役と思っていましたから。それなのに、何かミスをして従業員から怒られ、〝もう来なくていいよ〟と言われると、〝嫌だ〟と泣いている。〝会社で働きたい〟というのです。不思議でした。それに私のなかには障がいのある人を働かせている、という後ろめたさがどこかにありました』
思い悩む大山専務に、ある人の法事の場に居合わせた禅寺の住職(導師)から、天啓のような言葉がもたらされる。
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出版社:佼成出版社
定価:本体1,400円+税
発売日:2019年7月17日
幸福学研究の第一人者・前野隆司氏が「社員を幸せにする」7社を紹介。“社員ファースト”の実現が上向き経営につながった実例をレポートする。本サイトでの連載に 「第1部 ホワイト企業を目指す意義とは」(前野隆司)を加筆。