日本伝統仏教者のためのマインドフルリトリート

【基調講演2】「道元禅におけるマインドフルネス〜その理論と実践」 その2

藤田一照師
  • このエントリーをはてなブックマークに追加
  • LINEで送る

「日本伝統仏教者のためのマインドフルリトリート~日本仏教とプラムヴィレッジの相互対話」と題された研修会が、2019年5月8日から3日間、曹洞宗大本山總持寺を会場に開かれました。これは日本の伝統仏教の僧侶が、ティク・ナット・ハン師のサンガ「プラムヴィレッジ」と交流し、「マインドフルネス」をテーマに互いの修行法を共有するというもの。

全日本仏教青年会とプラムヴィレッジ招聘委員会により共催され、2015年から始まり今年で5回目。今回は「仏教における〈原点(オリジナル)のマインドフルネス〉」をテーマに戒律とサンガの成り立ちについて話し合われた。「ダーナネット」では基調講演を採録。今回は前曹洞宗国際センター所長の藤田一照師の講演の2回目です。

藤田一照師

――【前編】において、曹洞禅の中で「マインドフルネス」に一番近い言葉として「只管しかん」を挙げました。飯を炊くときは「〈只管〉飯炊き」、掃除をするときは「〈只管〉掃除」。このとき、仏が現成する、というのが曹洞宗の教えだ、と。

只管しかん」の深め方としての坐禅

ですから、「手の舞い、足の踏むところのいちいちが行仏(仏を行ずる)である」ことが、僕らの課題となるわけです。そちらの方向へ向かって精進・努力していくことが、禅を参究する僕らの課題になるのです。

この「只管」という在り方、マインドフルネスを深めていくための formal practice「正式な修行」が曹洞禅にはあります。只管の修行の範型が、坐禅、つまり「只管打坐」です。只管しているところ、そこに即座に〈仏〉が立ち上がるので、只管に坐っているときは「坐仏」がそこに現れる。

普通、長い時間かかってやっとブッダになれるかなれないか、と僕らは考えがちです。しかしそうではない。坐っているところに、すでにもうブッダが立ち現れているのです。そういう理解で坐らないといけないのですが、ともすると、僕らはそういう深い意味を持った「只管の行」ができていない。そこで、道元禅師は、こう言います。

――坐禅は習禅にあらず。ただ、安楽の法門なり。

「習禅」というのは、何かを目的、理想にした“method”としての瞑想。少しずつ練習して上手になってある境地に到達するというような考え方です。そういうフレームで考えられているのが習禅というもの。でも、「只管打坐」の坐禅は、そうではありません。

道元禅師はそうではなくて、坐禅そのものが安楽なのだ、と言うのです。「坐禅は難しい、苦しいものだ」とよく言われますが、道元禅師が言うような、そんな安楽の坐禅はどうやったらできるのか。――それは坐禅の問題というより、そもそも坐禅に向き合う、われわれ自身の理解とやり方に間違いがあるのです。

なぜかと言うと、仏教、その出発点は、ブッダが当時の二大行法であった瞑想と苦行をやめて、菩提樹の下に坐ったところから出発している。それまでのやり方をきっぱり〝やめて〟新しく始めたところから出発しているのです。僕は、それをDoing ModeからBeing Modeへのパラダイムシフトという言い方をしています。

これは、自我意識が主導するテクニックの習得というパラダイムから、大自然の働きにお任せするパラダイムへのシフトと言い換えてもいいでしょう。道元禅師はこの二つの違ったモードを表現するのに、次の重要な言葉のペアを使います。

一つは「強為ごうい」(forceful action 強制的、強引な行為)で、もう一つは「云為うんい」(spontaneous action 自発的な自ずからなる行為)(*1)です。僕が、Doing ModeからBeing Modeへのパラダイムシフト、と表現することに対応しています。

*1 強為・云為:(藤田一照『現代坐禅講義』 p. 379より)
道元禅師の『正法眼蔵 生死』のなかに「ただわが身をも心をもはなちわすれて、仏のいへになげいれて、仏のかたよりおこなはれて、これにしたがひもてゆくとき、ちからをもいれず、こころをもついやさずして」という言葉があります。これは云為でなされる坐禅のあり方、仏祖のパラダイムを見事に表現しています。普段のわれわれは吾我が中心になって「ちからをもいれ、こころをもついやして」、自己満足追求の生活活動を展開しています。そこでは吾我が心身をぎゅっと握り締めるようにして緊張させ、思い通りに操り統御しようとしています。これが強為であり、吾我のパラダイムです。坐禅では強為、吾我のパラダイムから云為、仏祖のパラダイムへのラディカルなシフト(移行)が起こっていなければなりません。

藤田一照師が初めて坐禅接心を行なった鎌倉・円覚寺の居士林前でプラムヴィレッジ一行と。中央に藤田一照師。(2015年4月30日)

調身・調息・調心

単一の坐禅というものを、だいたい伝統的には三つに分けます。Posture, Breath, Mindの三つです。

英語の解説書では、controlling posture, controlling breath, controlling mind. と、“control”という単語、表現をよく使います。が、僕はそれを採りません。コントロールと言ってしまうと、先ほど言った強為的な〈習禅〉になってしまうからです。

この、二元的なパラダイム、つまり、こちら側に私が居て、コントロールする対象が向こう側にある。これは大乗仏教では採らないのです。大事なのは、思い遣りと好奇心をもって愉快に稽古をする、ということ。そういう態度で「調身・調息・調心」をどう進めていくか考えていきましょう。

坐禅というのは、僕らの常識的理解とはだいぶ違っていて、〈調身〉で言えば、リラックスすることで成立する在り方です。“Doing”の積み重ねではなくて、Doing をやめる“Undoing”が基本です。

その結果、何が起こるか――。英語で表現してみると、

Be movable without moving, be still without holding.
動かないでいるけれどもいつでも動ける状態でいる。ぎゅっとかたまらずに静止している。

次の言葉はすごく禅的です。

Not prepare for anything, but be ready for everything.
何ものに対しても構えていないが、あらゆることに準備ができている。

これは、武道でいう「自然体」のクオリティです。
そして、最後は、僕にとってとても重要な一文です。

The less we do, the deeper we see.
やることが少なくなればなるほど、より深いものが見えるようになる。

坐相(姿勢)を、意識して無理にまっすぐにしようとすると、身体の感受性が下がってしまい、思考によって作り上げた偽の〈垂直性〉の枠に、自分を当てはめることになってしまいます。これではいけません。坐蒲の上に坐ったとき、とにかく、これに注意してください。一番肝心なところ、まさに坐禅の〈肝〉です。

  • このエントリーをはてなブックマークに追加
  • LINEで送る