日本伝統仏教者のためのマインドフルリトリート

【基調講演3】「仏教における戒律の問題と、マインドフルネスの意義」

蓑輪顕量先生
  • このエントリーをはてなブックマークに追加
  • LINEで送る

「日本伝統仏教者のためのマインドフルリトリート~日本仏教とプラムヴィレッジの相互対話」と題された研修会が、2019年5月8日から3日間、曹洞宗大本山總持寺を会場に開かれました。これは日本の伝統仏教の僧侶が、ティク・ナット・ハン師のサンガ「プラムヴィレッジ」と交流し、「マインドフルネス」をテーマに互いの修行法を共有するというもの。

全日本仏教青年会とプラムヴィレッジ招聘委員会により共催され、2015年から始まり今年で5回目。今回は「仏教における〈原点(オリジナル)のマインドフルネス〉」をテーマに戒律とサンガの成り立ちについて話し合われた。「ダーナネット」では基調講演を採録。今回は東京大学大学院教授の蓑輪顕量みのわけんりょう先生の講演の初回です。

蓑輪顕量先生

苦の原因としての人間の「認識機能」

――なぜ、マインドフルネスなのか。
それは苦しみの原因が、私たちの内に起きている認識の機能にある、そう仏教では考えたところから始まります。その原因はまた、感覚器官を通じて外界を認識した後に生じる「第二の矢」と比喩的に表現されるものでもあります。

瞑想は当初「サティパッターナ」。漢訳で「念処」と言われました。「念処」は、「対象に注意を振り向け、気づくこと」です。

まずお釈迦様は、私たち人間は、必ず、様々な苦しみを体験する、「生老病死」の四苦と、「求不得苦ぐふとっく」「愛別離苦あいべつりく」「怨憎会苦おんぞうえく」「五蘊盛苦ごうんじょうく」を併せた八つの苦を受ける存在だ、と受け止めました。そして、その苦しみは、私たちの心が作り出したものだと、お釈迦様は捉えたわけです。

私たち人間は、外界の対象に対する感覚機能が備わっていますので、外界の対象と感覚機能が接触すると、捉えられた対象としての何かが、心の中に描かれていると観察できます。

これは、絵を見ている時であれば、眼という感覚器官を通じて、視覚という感覚機能が生じて、そして、心(脳)の中に捉えられたイメージが瞬時に描かれます。その描かれたイメージに対して、「これは〇〇だ」という判断がすぐ働きます。その判断から、その次の心の反応が自動的に引き起こされていきます。このように、様々な働きが生じ、そこに悩みや苦しみが心の働きとして生じるのだ、とお釈迦様は捉えた訳です。

こうして、次から次へと心が外界の影響を受けて、それに対する判断を瞬時に起こして、それがきっかけになって心の働きを起こしてゆく。最初のところが「第一の矢」とすれば、次に生じてくるのが「第二の矢」であると、このように表現されています。

悩みというものは心が作り出しているもの。外界を認識して、次から次へと心は自動的に働きを起こして、悩み苦しみが生じているのだ。これが、お釈迦様の人間に対する基本的な認識です。

五蘊の働きについて解説される蓑輪先生

仏教が捉えた「心の働き」

ところで中国仏教の一つになりますが、玄奘の伝えた瑜伽行唯識学派、いわゆる法相宗では、心の中に生じてくる働きを三つに分けています。

分別ふんべつ
名言みょうごん
尋思じんし

一番目の「分別」は、「他のものと区別立てすること」と考えられます。
その次に生じてくるのは「名言」。名称、名前などと呼んだりもしますが、「分別」という〈区別立て〉が行われ、別物だとわかった直後に、そのものごとの名前がすぐに脳裏に浮かびます。そして「尋思」。名称を与えた途端、様々な思いが次々に生じて来てしまいますが、これが尋思です。

私たちが、外界にある対象を受け止めて、それから次から次へと展開させて行く心の働きを、「パパンチャ(戯論けろん)」とインドの初期仏教では呼びました。

外界の刺激を受け止めて、心に何かを描いて判断が生じると、その判断に基づいて、心がすぐさま動いていってしまう。これをインドの初期仏教では「戯論」と呼んでいた訳です。しかし中国に仏教が渡ると、上記のような「分別」と「名言」と「尋思」という説明の仕方を採るようになりました。

さて、私たちが世界を認識している時には、どういう心の働きが存在しているのでしょうか。お釈迦様はどのように考えたのでしょうか。お釈迦様は、これらを五つの範疇に分けました。「五蘊ごうん」(五つのカテゴリー)という名で呼ばれています。

一番、最初に来るのは、「しき」。色や形や物。物質的なものと考えて良いものです。

それから二番目に出てくるのが「受」。私たちが世界を認識すると必ず心の中で「感受」の働きを起こすとお釈迦さまは掴みました。――楽という感受、苦という感受、それから楽でも苦でもないという感受です。この三つが、私たちが世界を認識するときには必ずほぼ同時に生じる、とお釈迦様は言っています。

三番目は、「想」。例えば、眼という感覚器官を通じて視覚機能が立ち上がり、心(脳)の中につかまえられる対象としてのイメージが生じます。これを「想」と呼びます。

四番目は「しき」です。このイメージとして描かれた対象が心の中に立ち現れて、それに対して「これは〇〇だ」という判断が生じてきます。この判断が「識」という名前で呼ばれます。

五番目に「行」です。生じる順番通りではないと思いますが、想や識が働くときに、その背後で働いている何か、が気づかれ、それに行(潜勢力せんせいりょく)という名前が付けられました。

  • このエントリーをはてなブックマークに追加
  • LINEで送る