「日本伝統仏教者のためのマインドフルリトリート~日本仏教とプラムヴィレッジの相互対話」と題された研修会が、2019年5月8日から3日間、曹洞宗大本山總持寺を会場に開かれました。これは日本の伝統仏教の僧侶が、ティク・ナット・ハン師のサンガ「プラムヴィレッジ」と交流し、「マインドフルネス」をテーマに互いの修行法を共有するというもの。
全日本仏教青年会とプラムヴィレッジ招聘委員会により共催され、2015年から始まり今年で5回目。今回は「仏教における〈原点(オリジナル)のマインドフルネス〉」をテーマに戒律とサンガの成り立ちについて話し合われた。「ダーナネット」では基調講演を採録。今回は東京大学大学院教授の蓑輪顕量先生の講演の二回目です。
蓑輪顕量先生
戒と律
出家者の生活のあり方を規定するもの。それが「戒」と「律」という名前で呼ばれているものです。「戒」は「シーラ」。「みずから進んで守る習慣」です。一方「律」は「ヴィナヤ」と呼ばれ、「規則として守るべきもの」というニュアンスがあります。しかし実際には、大きな区別はないと考えられ、「戒律」という言葉で、熟語として扱われるようになりました。
この「戒律」は、どういう文献に説かれていたのかと言いますと、「律蔵」という経典に登場します。「律蔵」は大きく二つに分けられ、「経分別」と「犍度部」に分かれます。
「経分別」は、守るべき戒律の条文と、戒律制定の由来について述べたものです。
その条文を「学処」という名前で呼んでいます。これに対して、守るべき「学処」だけを集めたものを、「波羅提木叉」と言います。漢文ですと、「戒本」と呼びます。
「犍度部」は、サンガの運営に関する規則を集大成して述べているものです。
このように、戒律は大きく二つに分かれています。
世間からの批判を恐れたサンガ
お釈迦様の時代に、戒律はどのようにして出来ていったのか。基本は「随犯随制」と言い、問題が生じたときに初めて制定され、明らかにされたものです。
「五群の比丘」という、たびたび問題を起こした者たちがいました。その五人の比丘は、世間から批判を受けることになりました。それを見た他の比丘は、その模様をお釈迦様に報告します。
お釈迦様は、五人の比丘に「本当にそのようなことがあったのか?」と尋ね、真偽を確かめます。その後、「沙門法に非ず、威儀に非ず」と、悪しき行為をたしなめた、と律蔵の文件には定型句のようにでて参ります。こうして、「こういうことはしてはいけない」という文章、「学処」が出来上がり、戒律の条文が少しずつ増えていったのです。その背景には、世間からの批判を極力回避しようとする姿勢が見て取れます。
なお、波羅夷法と呼ばれる教団追放になる重罪がありますが、これは淫・盗・殺・妄と表現されます。セックス、盗み、殺人、悟りを得ていないのに悟ったと嘘をつくこと、の四つです。重罪としてあげられています。これらの四つの戒は、犯さないように守っていれば、悩みも少なくなりますので、修行もしやすくなります。よく、これらの法は修行者を守るものだとも言われます。
衆学法という名前で呼ばれている一番軽い罪があります。本人一人で懺悔をすれば許されるというとても軽い罪です。100個ほど上げられています。
その中に「立ち小便をしてはいけない」という戒律が出てきます。私は最初不思議に思ったのですが、「経分別」を見てみますと理由がわかります。それは「社会からの批判の的になるから」と出てくるのです。つまりインドの習慣の中では、立って小用をするというのは、はしたない行為とみなされていたのです。ですから、出家者が立って小用を足すのは批判の対象になるのです。
このように、戒律は「防非止悪」、「非なるものを防ぎ、悪を止める」。これが戒律の一番の目的だというふうに言われます。