怒りの源は世の中にある?
こんな言い方ができるかもしれません。
〈人間がどうしても怒ってしまうのは、本人に問題があるのではなく、世の中が不条理だからである〉
不条理などという言葉を持ち出すと、ずいぶんと難しいことを言っているように聞こえるかもしれませんが、要は、「怒ったのは間違いなく私だけれど、それは自分のせいではなく、世の中のせいだ」という主張です。これには、皆さんもきっと心当たりがあることでしょう。「世の中のせい」ということではなくても、特定の誰かが悪いのだと、怒りの責任を他人に押しつけるのと同じ構造です。
こうした、いわば「責任転嫁」は、子どもがよくやることですが、大人もその点では負けていません。自分が怒ってしまったとき、それでその場が気まずくなったりすると、原因はほかにある、ほかの人間にあるのだと言い張って、自分には責任がないかのように振る舞うのです。
たしかに、世の中というものは、ずいぶんと不条理なものです。道理に合わないことが横行していて、ときに私たちはその害を被ります。「風評被害」などというものは、その典型でしょう。あるいは、根も葉もない噂を立てられて、それで迷惑をするなどということは日常茶飯事です。
世の中には、たくさんの人がいます。それぞれの人間は、自分たちの思惑で行動しますし、他人のことを十分に考えてはいません。おかしな噂に飛びつき、それを広めることに貢献したりもします。聞きかじったことが、すべて事実に基づいているのかどうか、私たちはそれを一つ一つ確かめたりはしません。だからこそ、「流言飛語」が生まれるのですが、それをただ広めた人間は、格別責任を感じたりはしないのです。
バックナンバー「 宗教学者 島田裕巳の“怒りの研究”」