競争相手は自分と気づく
「生き延びること」と「競争に勝つこと」はまったく違うことです。競争に勝てば生き延びられ、負ければ死ぬというような状況は、よほど邪悪な人間が手の込んだ仕掛けをしない限り、ありえません。
ぼくたちが遭遇する危機において「生き延びる」チャンスは競争相手を排除することではなく、むしろできるだけ多くの人と、つまりは、立場も意見も違う人ともどうやって相互扶助・相互支援のネットワークを形成できるか、にかかっています。
競争に勝つことが奨励されるのは人間がルールを決めたゲームにおいてだけです。天変地異などの本当の危機的状況のなかで、他人を蹴倒したり、押しのけたりして「われひとりよければそれでいい」という考えをもつ人間は必ず罰を受けることになります。これは人類学的な真理です。
真の危機に遭遇したときは団結し、協力して事に臨む。そのためのノウハウを、ぼくたちの先祖はいろいろなかたちで継承してきたはずです。
でも、その共生のための伝統的ノウハウは今の平和な世の中では軽視され、打ち棄てられようとしています。人々は共生ではなく、競争を優先している。隣人を支援することより、隣人を押しのけることのほうが生きるうえで有利だと信じ始めている……。
一方、武道は自分の生きる力を最大化するための技術的な体系です。しかし強弱勝敗を論じていると、ある段階で壁にぶつかる。もちろん、誰でも初めは「勝ちたい。強くなりたい」という動機から武道を学びます。けれども、そうやって稽古していると、ある時点で技術がそれ以上は伸びないことに気がつきます。「勝ちたい。強くなりたい」というマインドセットそのものが技術的な向上を阻む壁に突き当たる。
だからといって、初めから「私は競争なんてしない。強くなりたいなどとは願わない」と、悟り澄ました構えで稽古に臨むことは許されません。そんな心構えでは技術の壁に突き当たることができない。強くなりたい、勝ちたいと念じる人間が、「強くなりたい、勝ちたいとばかり念じていると、勝てないし、強くもなれない」という逆説的な壁に出合うことができる。
競争と共生を、ぼくはさきほど対立的に語りましたけれど、実際には対立するものではありません。競争を限界まで追究した人間が共生の大切さを学ぶ。競争の限界を知るには、とことん競争してみるしかない。
ギリギリのところまで自分を追い詰めたとき初めて、自分の能力の開発を妨げているのは、自分自身だと身にしみてわかるからです。
だから、子どもを競争に投じることにはデリケートな配慮が要ると思うのです。競争に追いやって「とにかく勝て」と責め立てれば、子どもは狭量で利己的な人間になりかねない。だからといって「競争なんかしなくていい。みんなと仲良くしなさい」と放置しておくと、子どもはなかなか自分の限界に気づかない。
競争的環境における相対的な勝ち負けから学ぶこともある。でも、競争に勝つことより生き延びることのほうがもっと大切だ。それが親が子に教えるとりあえずの言葉でしょう。