我を忘れる瞬間を求めて
瞬間的なエクスタシーとは何かと考えると、僕は一瞬でも「忘我」する、我を忘れる時間ではないのかと思っています。
スポーツをしたり、趣味の時間だったり、我を忘れて夢中になる瞬間って、誰にでもあるじゃないですか。また、やりたいことだけに忘我が生まれるわけじゃなくて、人から頼まれた仕事だったり、ちょっとした親切にも生まれたりする。
やっぱり、人に喜んでもらえるとうれしいじゃないですか。それは「我」を受け入れてもらえた、つまり自他の境を忘れられたってことですよね。
自分を忘れられる時間を、生きているうちにどれだけ味わえるか、それを考えたいですね。
でも、だとすると、どうして人はエクスタシーを感じたくて、我を忘れたいんでしょうね?
僕は、人間は生まれた瞬間から、忘我を求めているように感じるんです。誕生する前は、母親の胎内のなかで、何か大きなもの(神さまとか自然でもいいですけど)と一体だったのに、生まれるときはそこから切り離されてしまうでしょ。我という意識は、切り離されたことで生まれたのではないかと思うんです。
僕たちが日ごろ、我を忘れたい、余計なものと感じるのは、「一体化していたい、もう一度、何か大きなものと一緒になりたい」なんていう願望があるからなんじゃないでしょうか。