対談

藤田一照 プラユキ・ナラテボー対談:「大乗と小乗を乗り越え結び合う道」 その1

藤田一照・プラユキ・ナラテボー
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――説一切有部の教義は改めて教えていただくとして、「声聞根性、二乗根性」などという批判、つまりエゴイスティックという批判を受けるべきメンタリティをもつ仏教徒の存在を、仏弟子の中に想定することのほうが難しいとも思うのですが、その点、いかがでしょうか。

一照 さっきも言ったように、修行者の中にもやはり、自分の個人的な救済のみを念頭に置いて励んでいた人たちはいたんじゃないかと考える方が現実的ではないですかね。あるいは、修行が深まるにつれて、自分の中にあるそういうエゴイスティックな傾向性により敏感になっていくということもあったでしょう。

プラユキ ちょうど最近ツイッターを見ていて、こんなツイートが目に入りました。「修行の動機が他者のためなら大乗仏教。ヴィパッサナーや手動瞑想も他者のためにするなら大乗仏教の修行です。菩薩道でも慈悲の実践でも、自分のためにするなら小乗仏教です」と。

一照 僕も大体、そういう使い方が多いです。

プラユキ 「慈悲の瞑想」が、他者にコミットして実際に行動を起こす慈悲の実践ではなく、ただ自分の心を楽にするためだけに祈る、という文脈だと、それは小乗的ということになりますね。自身から他者へと「抜苦与楽」を展開させるきっかけとしての慈悲の瞑想なのか、それとも個人的な自己満足にとどまって終わるのか、その辺が両者の違いになるかと思います。

もちろん自分自身の抜苦与楽を実現しようとするのが悪いということではありません。ただそれにとどまってしまうことは、「慈悲」という教えの持つ豊穣さを半減させることになったり、仏教を単なる個人的な救いをもたらす教えに矮小化させてしまうことになるのでは、という危惧があります。自身の抜苦与楽で始まるのはとても大事なことだと思いますが、それは自他の抜苦与楽へと向かっていくのだ、ということを常に意識しておくことが必要ではないかと思います。すなわち、「小乗的」に自分を救う修行も大事だけど、それにプラスして、自他の抜苦与楽を志向していれば「大乗的」と呼べる。小乗を大乗の対立概念ではなく、プロセスとして大事なもの、というように位置づけてみるのもいいかもしれませんね。

――プロセスというのは、小乗、二乗(声聞・縁覚)があって、その上といいますか、レベルアップしたところに大乗があるのでしょうか。あくまでも大乗が上の存在、小乗を凌駕すると。
つまり、仏教の真価は大乗にあり、小乗的なメンタリティも、残念ながら仏教の中には存在し得る、とお考えですか。

プラユキ 特定の仏教の伝統やグループを指してではなく、あくまでも一照さんのいう「メンタリティ」としての小乗・大乗という区分に即して話しますが、まずは他者云々よりも、苦しみにどっぷりはまり込んでいる自分自身をある程度楽にしていくということが先決です。それは瞑想修行などで禅定や智慧を育んでいくことで実現できます。ただそれだけでは仏教の教えがコンプリートされたことにはなりません。それに慈悲──衆生にコミットして、智慧を用いて自他の抜苦与楽を実現化していく営み──が加わり、智慧と慈悲という両輪が揃って仏道と呼べるのではないかと思っています。これを私なりの言葉で、どんな現象も良き縁と為せる段階を経て、だんだんと自分が一切衆生の良き縁となっていく段階に移行していく、と言っています。

そう捉えられれば、小乗VS(ヴァーサス)大乗ではなくて、プロセスとして小乗も大事だよね、という言い方はできるかなと思います。

――プラユキさんがタイに渡った時に、「これから上座仏教を学ぶんだ」という意気込み、意識はありましたか?

プラユキ いや、全然なかったですね。一般的な(小乗という言葉の)旧態依然の使い方はしていましたが、私の場合は、スリランカのサルボダヤ運動(*4)を大学のゼミで勉強して、「あっ、大乗的な、菩薩的な活動が、いわゆる小乗と言われている国で行われているんだ」という知見を得たんですね。

*4 サルボダヤ運動 世界から飢餓・病気・無知・闘争をなくすことを目指す、アジア地域最大級のNGO団体を基盤とした社会活動。有機農業を軸にした持続可能な第一次産業の活性化を通して民衆の自立を目指し活動を行っている。創始者は、スリランカの社会活動家・仏教徒アリヤラトネ(Ahangamage Tudor Ariyaratne、1931年~)。

そのあとタイへ行ったら、ブッダの教えを基盤として貧困問題をはじめとした社会問題の解決に積極的に取り組む「開発僧」というムーブメントが起こっていて、実際にお坊さんたちが大乗仏教の菩薩的な慈悲の実践をされているのを目の当たりにしました。

当時の日本で、少なくとも私の目には入ってこなかった本来的な仏教の在り方をタイという国で目の当たりにして、「日本は大乗、タイは小乗」といったような偏見が一気に払拭されましたね。

その後、縁あってタイで出家して上座仏教の僧侶になったわけですが、とりわけ、私が出家したスカトー寺のお坊さんたちは、「大乗だ、小乗だ」といった区別にはまったく関心がなく、ひと言で言えば仏教の本質的なものを非常に大切にしていました。

実際に、禅の六祖慧能(*5)とか臨済(*6)とか、そういった大乗禅のお坊さんのエピソードや教えも住職の説法にはよく登場してきます。禅的なあり方も高く評価されていて、大乗だからダメだなどと微塵も口にされることはありませんでした。

私自身はそのような環境で修行してきましたので、確かに大・小乗の偏見や歴史的な背景はあっても、それはそれでまったくオッケー。ただ自分がご縁のあった場所でどのように本質的な仏教を伝えるか、ということだけを考えています。

*5 慧能(638─713年)が師僧の跡継ぎとして認められた時、次のような詩を残したというエピソードが伝えられ、大乗禅の真意を言い表したものとして語り継がれている。
菩提に本から樹など無い 明鏡にもまた台など無い / 仏性は常に清浄だ 何処に塵埃が有るのか / 心が菩提樹であり 身を明鏡台というのだ / 明鏡は本から清浄だ 何処が塵埃に染まるというのか

*6 臨済(866年没)中国唐の禅僧。名は義玄。臨済宗の祖。黄檗希運の法を継ぎ、厳しい参禅修行で知られる。中国禅宗のなかで臨済宗は最も盛えた。その言行は弟子により『臨済録』にまとめられている。

そうした中で、一照さんに出会って、こうして一緒に対談したり本を書いたり、円覚寺で臨済宗の横田南嶺老師とも対談会をしたり、つい最近、日蓮宗の宗務院からもお招きを受けてマインドフルネスのお話をしたり、機関誌に文章を書かせていただいたりもしました。

このように自分自身が、様々な宗派の方とも仲良くしている姿を見ていただき、仏教徒の在り方を示していく役割が自分にはあると思っています。それで例えば、真宗の松本紹圭さんとも親しいのですが、松本さんが全国に広めようと力を入れている〝Temple Morning〟の活動や超宗派でやっている一人親家庭の子供たちを支援する「おてらおやつクラブ」などの活動をツイッターで紹介させてもらう。そうすれば、テーラワーダ VS 大乗仏教じゃなくて、お互いに協力関係があって、「チーム仏教」なんだと皆が感じてくれるのではないか、と。そういうことを私はすごく大事に思って実践しています。

そうそう、一照さんとテーラワーダ仏教のスマナサーラ長老の対談書『テーラワーダと禅』という本がありますね。あのなかで長老が、「私たちは、私の宗派こそ正しいのだと、井の中の蛙のように鳴き叫ぶ必要はなくなっているのです。蛙たちはみんな井戸から出て、一斉に鳴いて、人々が喜ぶ心地よいハーモニーを奏でればよいのです」と言っていましたが、我が意を得たりのとても素晴らしい発言だなと思いました。

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