――いよいよ、むずかしいですね。歴史的にそういった要求が、仏教の中に現にあったということですね。「劣乗」という蔑称は論外にしても、小乗仏教という言葉を、歴史的経緯を無視して、単に不適切と考える立場から「言葉狩り」のように扱うことは控えなければなりませんね。ところで、大乗・小乗という言葉を使わない、という立場を採る人たちもいるようですが。
一照 アメリカでヴィパッサナーを教えているジャック・コーンフィールドさんとかジョセフ・ゴールドシュタインさんとか、インサイト・メディテーション・ソサエティ(IMS)を作った人たちは「ワンダルマ」って言い方をしているんですよ。
要するに仏法は一つしかないはずだ、と。それが不幸にしていろんな事情で分かれてしまったけれど、さっきも言ったようにグローバルな時代においては一つに収斂する必要がある。それで彼らは「ワンダルマ」って言っているんです。
僕から見ると、そのワンダルマをどこに持ってくるかというと、やっぱりテーラワーダなんですよ、彼らにとっては。
プラユキ ほほう。やはり、そういうことになりますか。
一照 多様性と統一性というようなことが、この地球上で、政治的にも言われていますけど、だいたい統一しようとするときは、自分のところに統一しようとする傾向があるわけです。
統一を声高に叫べば叫ぶほど、分裂が生まれるという皮肉がいろんな局面で起きていて、仏教でもワンダルマと言ったときに、ワンダルマの〝ワン〟はどこなのかというと、大抵は声を挙げている人の信奉しているところであって、他の伝統をそこに持って来ようとする傾向がある。だから難しいですよ、ワンダルマと言ってもね。心意気はいいのだけれど、実現するのはなかなか難しいようです。
――ありがとうございました。プラユキさんからは、タイのテーラワーダ仏教の本質に立脚したグローバルな姿をご紹介いただきました。また、一照さんからは、教義の捉え方、本質的なダルマの捉え方に、架橋できないギャップがあるのではないか、という極めて重大なお話が出てまいりました。次回には、上座仏教と大乗仏教の教義の違いなどにも触れていただき、さらに議論を深めていただこうと思います。