――タイのスカトー寺を訪れる悩める日本人は、そのような、手に握ったような状態でやってきて、手放した状態で日本に帰国する、という経験もあるんでしょうね。
プラユキ はい、そうした経験に何度も立ち会ってきました。 それまでの人生で構築してきていた概念構造というか、ものの見方の日本バージョン、あるいはそれぞれの家族の中で身につけてきた考え方。そういったものを一旦おいて、タイの森林で暮らしてみる……。
一照 環境をガラッと変えるというわけですね。実は環境も自分の一部だから、タイの森林に行ったら、そこで新しい自分が立ち上がるんでしょう。日本にいた時の自分とは自ずとちがってくるはずです。人間は環境を作りもしますが、環境から作られるという面もあります。作りつつ、作られる。
プラユキ おっしゃるとおりです。たとえば、機能不全な家庭でずっと暮らしていれば、その家族で共有するものの見方や考え方、あるいはそこで自分自身が演じる役割が当然のように思えてきてしまいます。また、社会に出たら出たで、日本社会で常識とされるものの見方や考え方を身につけ、一定の役割を演じるようになります。そんななか、何らかのきっかけで心を病み、行き詰まってどうにもならなくなった人たちが、まずは物理的に家族や日本社会のしがらみから離れ、また日本語という慣れ親しんだ言語からも距離をとることで、「常識化」していた息苦しいものの見方や理不尽な考え方、そして自らが知らず知らずのうちに演じていた不都合な役割を相対化し、新しいものの見方や生き方を獲得していくことが可能になります。そうしたことを促す舞台装置として、タイの森のお寺という環境が非常によく機能してくれるのですね。
こうした環境にしばらく身を置くことで、自分がこれまでこだわってきたものが、実は一つの信念体系、あるいは「考え方の癖」に過ぎなかったのだな、ということが見え始めてくるわけです。
例えば、托鉢に一緒に歩いて、タイ農村の人たちのシンプルな暮らし振りを目の当たりにする。あるいは、お寺へ次々とやって来られ、敬虔な態度で仏教を厚く敬い、修行に励む人たちの姿に接し、それまでお金がたくさんないと生きていけないと不安になっていたけど、タイの人たちはお金云々ではなくて、心を大切にして、豊かに生きているではないかと。そうした体験も刺激になって、それまでの世界観から「脱フュージョン」できるようになります。
さらに、瞑想という自分に気づいていくトレーニングに取り組むことで、自己を客観視することが可能となり、知らず知らずのうちに身につけ、はまり込んでいた自己概念や信念体系、ものの見方、考え方、役割といったものから自由になっていくわけです。
――プラユキさんのご著書に『悟らなくたって、いいじゃないか』(魚川祐司氏との共著 幻冬舎新書)があります。その中に、プラユキさんはスカトー寺にやってくる人に対して「悟り」を得るための指導はしないという話が出てきますね。その理由として、忙しい日本人が一週間や十日の時間を捻出して来ているのに、一年も二年もかけて、あるのかないのかわからない「悟り」を目指して頑張りなさい、とは言えないと。
プラユキ そうですね。多くの人が抱えている問題は、実際「悟り」云々よりも、日常生活での切実な問題の方が大半ですから。今現在、会社の上司との問題を抱えていたり、夫婦関係がぎくしゃくしているとか、あるいは、鬱っぽい状態や神経症的な症状に悩んでいるとか――そうした問題の解消に、仏教の教えや修行が即効で効果を発揮しますよ、ということをもっと皆さんに知ってもらえればと思っています。実際そういった感じで楽になっていった人を自分の目でたくさん見てきましたので、自信を持ってお勧めできますよ。
要は、「悟り」というものを求めなくては仏教に関わっちゃいけない、などと誤解している人もいますので、「そんなことないですよ」と伝えたいわけです。「悟りを求めることは仏道に入るための必須条件ではない。ドントハフトゥビーエンライテンド “Don’t have to be enlightened”」。「悟る必要はない」と同時に、もちろん「悟ってもいいよ」という意味も「悟らなくたっていい」には含まれています。
仏道は悟りを目指す人だけ、そうした一部の修行エリートだけの占有物ではない。ご縁のあった人、誰でもが自分のテーマに沿って自由に活用していけるオープンソースな教えであると理解してもらいたいわけです。仏教を学んで実践していけば、心の病や苦悩が軽減したり、人間関係の問題が解消していったり、あるいは悟りがどんどん開けてきたり、人それぞれのニーズや目的の実現が促される。ブッダの教えとはそういうものなのです。
――それは、タイのテーラワーダ独特の在家に対するアプローチでしょうか。というのもつまり、テーラワーダ仏教では「悟り」を重んじますね。三宝印にもはっきりと「涅槃寂静」を謳っているわけです。
プラユキ タイのテーラワーダ独特のアプローチなのかどうかは、私自身他の国で学んだり実践してきたわけではないので知りません。いずれにせよ、「悟り」はタイでも、もちろん軽んじられているわけではありません。ただしテーラワーダで言う「涅槃」は苦しみからの全き解放を言いますが、それが大乗仏教で言われている「悟り」と同じかといえば、そうではない感じがいたします。
バックナンバー「 藤田一照 プラユキ・ナラテボー対談:「大乗と小乗を乗り越え結び合う道」」