――テーラワーダの「涅槃」と大乗の「悟り」。そういった場合、おっしゃるところの「プロセス」としての小乗から大乗へ、ということに関連してくるのでしょうか。
プラユキ 個人が苦を滅するための「智慧」における到達点=涅槃については、ブッダが2500年前に決着をつけました。一方、一切衆生の苦しみからの解放である「慈悲」に関しては、ブッダ在世時には成就されず、今なお未完結です。この「慈悲」の成就こそが、ブッダが私たち後世の者に託されたミッションではないかと私は理解しています。そんな意味で、これを「小乗」から「大乗」へ至るプロセスと称してよいかもしれません。しかし「テーラワーダの涅槃と大乗の悟り」との関連付けを、今、求められましたが、それはメンタリティの問題を特定の仏教の伝統と紐付けることとなり、またいらぬ混乱を生んでしまいますので、気を付けた方がよいかと思います。
いずれにしましても、未来の結果である悟りや涅槃に囚われてしまうと、結局、今ここでなすべき任務がなおざりになってしまいます。そんなわけで、悟りや涅槃、あるいは苦しみの滅尽という方向性がはっきりと定められたら、あとはただ今やるべき務めに精進していくのが一番だと思います。
なお、ここでいう精進は、瞑想修行だけではなく、現実的な悩み苦しみにちゃんと向き合い、正しく取り組んでいくことももちろん含まれており、そうした往還により、悩み苦しみが軽減し、悟りや涅槃への歩みを促進していけるということです。
一照 道元禅師などは、今、ちゃんと修行していたらそれがもうすでに悟りだって言ってますね。「修証一等」とか「証上の修」とか。悟りを遠い先に見ちゃいけないことを強調しているんです。今ここの修行がもう悟りの表現なんだというニュアンスでね。修行していることが悟りの証明なんだっていう位に、修行とその成果の距離を無限に縮めているんですね。
プラユキ でも、一照さん。そこのところが難しいですよね。そういった表現ってちょっと誤解を生んでしまうようなところがありませんか。いかがでしょうか。
一照 はい、その通りで、これがもっとも誤解されているところでしょう。下手をすると、現実容認というか、惨めな現実に真摯に取り組むことをあきらめる口実になったりするし、問題の所在を覆い隠してしまって、変容の契機になる自己洞察の芽を摘むことにもなりかねませんね。
プラユキ ですよね。それこそスピリチュアル・バイパッシングになってしまいますから、そうした罠に陥らせないようにする注意や工夫が必要になるでしょうね。
ところで、修行を続けていると、「あ、今まで知らずにこうやっていたから、辛い思いが生じてきていたんだ。だからこれからはこうやっていけばいいんだ」とか、「自分の苦しみの原因は過去にあると思い込んでいたけど、実は、今ここでの心のアクションで苦しんでいたんだ」といったことにハッと気づく。そしてその瞬間に心がスッと軽くなることがあります。
ちょうど昨日ツイッターを見ていたら、「感情や思考を何気なく観察してたら、夫に、親に、誰かに自分を幸せにしてもらいたい執着が苦しみを生じさせたいたことに気づいてしまった!その瞬間にガラガラと、からくりが解体されて、あははは、笑ってしまった。パカーンと青空広がっていました」と呟いていた方がおりました。
このようにある種の直感や理解が生じ、実際に苦しみがスッと軽くなったら、それは一つの「悟り」。と、そんな感じに、悟りのイメージを、もっとカジュアルなものにしていってもいいんじゃないでしょうか。何十年もの厳しい修行の末にやっと開けるものと捉えるより、もう少し現実に即して、誰にでも生じてくる機能的な現象として捉えてみてもいいような感じがいたします。
――プラユキさんから、悟りとは、現実的で機能的なものとして捉えることの大切さが出ましたが、一照さん、いかがですか。
一照 現実に対してなんの働きのない悟りは、腹を満たさない絵に描いた餅だと思いますから、プラユキさんの意見に賛成なんですが、一方では、悟りをあらゆることを解決する万能薬的みたいなものに祭り上げないことが大事だとも思うんです。悟りというと個人が獲得する宗教的な体験のことで、自分で「あ、俺はそれを得たぞ!」と感激を伴って意識的にわかるものだという風に理解されていることが多いですよね。僕も以前は普通にそう思っていました。「あなたはいつ悟られましたか?」とか「自分はまだ悟りを得ていない」という風なことが言えるような、人が何かそれと認識できるような特別な出来事だと思っていましたけど、道元禅師の言う悟りは、そういう個人的体験の話ではないようなところがあります。
――個人的ではない。
一照 はい、個人的っていうのは、さっきの無限というのも同じことですが、何かの切り取りになってしまう訳ですよ。悟りがそんな個人の体験として切り取れるものなのかということです。悟りを得たのは誰かというと、それは俺だよ、という話なら、世間の話ではあっても仏法の話じゃなくなる。
前回の対談の中でも大きなテーマになっていた「仏性」の話につながりますが、道元さん独特の仏性観では、たとえば、私が「仏性」というものを持っていると言ったとき、持たれている「仏性」と、持っている「私」との間に隙間が空くじゃないですか。
私の中に「仏性」があると言ったら隙間を作ることになる。「仏性」ではないものがある。「仏性」でないものがあってはいけないのです。いけないというか、そういう理解の仕方をしていないのです。存在している限り一切のものは仏性なんですから。
道元さんにとっては、「悟り」は無限なものです。だから輪郭は描けません。その中から落ちるものはないのです。我々は無限の悟りの中で生きているので、それを俺が体験するのが悟りだと言ったら、無限を有限のものに矮小化することになります。だから、できるのは悟りにサレンダーすることだけです。悟りを体験としてポケットに入れるみたいに自分の所有物にはできないのです。
――「仏性」が種のように、人の中に「在る」ものではない。存在そのものが「仏性」なのだというお話を、前回、教えていただきました。そして今日、「悟り」とは、得るものではないのだ、ということですね。
一照 そういう風に、何か素晴らしい体験を俺が得るという枠組みでは語れないものが悟りではないでしょうか。あえて言うなら、いかなる体験にも拠らないことだったんだという気づきです。その気づきには確かにある体験が伴うかもしれません。その気づきが起きた時の、その人なりの受け止め方には多様性があるでしょう。ハッとして大きな感動に包まれる人もいれば、なんとなくジワジワ染み込んでくるような受け止め方をする人もいるかもしれません。でも、体験はあくまでも体験で一時のものです。それに寄りかかってはいけない。
ですから、僕がいま理解している悟りは、何月何日何時何分にドカーンと悟りましたっていう、そういう話ではないのです。あまりにもそういう理解が普及しているので、僕自身は「悟り」という語はほとんど使いません。道元禅は、「証(しょう)」という「証明」するの「証」の字を使います。「あかし」ということです。修行によって、自分が悟りの中にすでに生きているという事実がこの身で刻々に証明されているという意味なのです。そこでは、修行という実際の行為と相即的にのみ悟りがとらえられているので、俺が体験したり得たりするコロッとしたものではないんです。
――仏教の究極の教えである「涅槃寂静」、「悟り」ということに関しての、お二人のご見解がよくわかりました。今日も大変意義深い対談となりました。誠にありがとうございました。
バックナンバー「 藤田一照 プラユキ・ナラテボー対談:「大乗と小乗を乗り越え結び合う道」」