ティク・ナット・ハン師の説く仏教の根底には、必ず“mindfulness”がある
タイを日本に招聘して学びを深めたのちも縁は続き、御著書『Zen Keys』(邦題:『禅への鍵』)、それから『Opening the Heart of the Cosmos: Insights on the Lotus Sutra』(邦題:『法華経の省察』)を翻訳しました。
『Zen Keys』の第1章の章題は、「マインドフルネスの修行」ですが、この部分は苦労して翻訳しました。というのも、当時“mindfulness”という言葉は、日本ではほとんど知られていなくて、何と訳せばいいのかまったくわからなかったからです。そこで、仕方なくそのまま「マインドフルネス」とカタカナに訳しましたが、ご存じのように、今ではこのカタカナによる訳語が一般的となり定着しています。この本を訳したおかげで、少し、mindfulnessとは何かが見えてきた感じがしました。
一連の著作を読んだときの僕の印象は、ティク・ナット・ハンさんは、“mindfulness”を仏教修行のすべてのベースに置いているということでした。“mindfulness”が無かったら、一切ダメ、というくらい“essential”な(欠くことができない)ものなのだ、というわけです。僕は、タイの本を読んだ時に、パウロの「コリント人への第一の手紙」の一節を思わず想起しました。
――こういうわけで、あなたがたは、食べるにも、飲むにも、何をするにも、ただ神の栄光を現すためにしなさい。(コリント人への第一の手紙 神の栄光 10章31節)
キリスト教の人だったら、「神の栄光」を現すためにすべてのことをやるわけです。これは要するに、修行の方向性です。神の栄光を現すため、という方向性ですべてが行われる、ということです。
この一節の「神の栄光」のところを、仏教修行者ならば「マインドフルネス」に置き換えてみればよいわけです。
――あなたがたは、食べるにも、飲むにも、何をするにも、ただ「マインドフルネス」を現すためにしなさい。
こう言葉を置き換えてみると、仏教を行じる者にとって、マインドフルネスはこうしたとても大切な位置付けを持つものだ、ということに、なんとなく納得、合点がいくはずです。
鎌倉を訪問したプラムヴィレッジの一行。中央に藤田一照師。右から六人目にティク・ナット・ハン師(1995年5月15日)
道元禅の中にある、マインドフルネスに近い概念
道元禅師は、「八大人覚(*)」巻を、最晩年に、事実上最後の『正法眼蔵』として書かれています。大人、つまり仏の覚りの八つの側面というのが八大人覚の意味です。
*八大人覚 少欲(欲をわずかにす)/知足(足るを知る)/楽寂静(寂静を楽う)/勤精進(精進を勤める)/不忘念(念を忘れず)/修禅定(禅定を修める)/修智慧(智慧を修める)/不戯論(戯論せず)
――五つには不忘念。亦た守正念と名づく。法を守って失はざるを、名づけて正念と為す。
皆さんも「正念」という言葉はご存じでしょうけど、正念というポジティブな言い方と、「不忘念」という、正念を忘れないというネガティブな言い方がありますが、意味は同じです。
これは非常に大事なものとされていて、悟りをひらいた人が持っている八つのクオリティの中の一つに数えられています。「正念」「不忘念」。これが、仏教の原点としての「マインドフルネス」です。
それは、修行生活の全体からオーガニックに身心に染み込んでいくべきもので、特定のプログラムで特別に習得するような〝単体〟のスキルとは考えられていない、ということがその特徴です。
現在、西洋から日本にやってきているマインドフルネスは、プログラム化されたマインドフルネスです。その意味で、西洋の世俗的なマインドフルネスと、仏教のそれ(Buddhist mindfulness)には大きな違いがあります。道元禅におけるマインドフルネスは、修行生活の全体からオーガニックに身心に染み込んでいくべきもので、特定のプログラムで特別に習得するような〝単体〟のスキルとは考えられてはいません。
ですから仏教の場合は、「さあ、これからマインドフルネスのトレーニングをするぞ」というふうには言わない。なぜなら、それはそれ自体としては抽出できない〈いのち〉だからです。いのちは、切り離したら死んでしまうものなのです。ですから、道元禅の修行の中から、マインドフルネスだけを取り出して持ってくる、ということはできません。それこそ、全部持っていくしかない、〈いのち〉と呼ぶべきものなのです。
譬えて言えば、スポーツジムで特別な器具を使って筋トレしてつけた筋肉と、日常の労働で自然につく筋肉の違いのようなものです。プログラム化されたマインドフルネスは、ジムでトレーナーの号令に合わせて鍛えられた筋肉。ですが日常生活の中で、そんなふうに単純に筋肉を使う動きなどほとんどない。一方、漁師やお百姓さんが、毎日毎日、網を引き揚げたり鍬で田畑を耕したりする中で自然についた筋肉は、オーガニックに鍛えられた筋肉です。この違いは大きいのではないかと僕は見ています。