日本伝統仏教者のためのマインドフルリトリート

【基調講演2】「道元禅におけるマインドフルネス〜その理論と実践」

藤田一照師
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離日直前に著書にサインをいただく藤田一照師。中央にティク・ナット・ハン師。右は招聘委員会の代表の一人である中野民夫さん(1995年5月16日)

仏教の修行はオーガニックにできているので、〝単体〟のビタミン剤みたいに、いかに純粋な100%のビタミンCであっても、食物の中に含まれるオーガニックなビタミンCとは違うのです。これは、良い悪いではなく、また上下でもないし優劣でもない。違いを言っているまでです。

このように、西洋から入ってきた「マインドフルネス」と仏教のマインドフルネスでは、質的に違うと言っていいのです。道元禅で、例えば先ほど言った「八大人覚」。これら八つのうち、あれとこれを別々に抽出して比較するということはできないのです。あれのなかにこれが入っているからです。僕はそう理解していますので、これらは〝単体〟で切り離すことはできない。道元禅の「マインドフルネス」とは、オーガニックな〈いのち〉の成分だと僕は考えているのです。

――マインドフルネスと「只管しかん

道元禅師の教えの中のマインドフルネス的なもの。それは「単体で切り離すことはできない」と先程申し上げました。が、そうは言っても、かろうじて、そこに焦点を当てた言葉を、道元禅師の教えの中にいくつか見出すことはできます。

その一つが、今、申し上げた「不忘念」。もう一つが「行持綿密ぎょうじめんみつ」という言葉です。「綿密」というのは、曹洞宗の核になると言われている言葉です。細かい、というよりすきがない。この言葉はそういう感じで捉えてみてください。「行持」は日々の行いのことです。日々の行いが、どれくらい隙なく綿密になされているかが、ここでは問われています。

そして、さらにもう一つ。「威儀即仏法いぎそくぶっぽう 作法是宗旨さほうこれしゅうし」。これらの言葉が曹洞宗の特徴と言われています。

威儀というのは、「行」は歩く。「住」はとどまること。つまり立つことですね。「坐」は坐る。「臥」は寝ること。仏教ではこれを合わせて四威儀と言います。これら日常のすべての動作そのものが、仏法にかなったものでないといけない、そう言うのです。

それとペアになるのが「作法是宗旨」。作法は〈もの〉をどう扱うか。自分の身体をどう扱うか。そこに「宗旨」、つまり教えのエッセンスがあるのだ、というのです。だから、何か高尚な哲学的な議論とかそういう話ではなく、日々、あなたはどのように人と関わっていますか、〈もの〉を扱っていますか、というところに目を向けなければならない、ということなのです。この、如何にして日常のあらゆる行為を、単なる掃除とか料理ではなくて、「行」にできるか、修行者はそれを問われている訳です。

このようなことから、曹洞禅の中で「マインドフルネス」に一番近い言葉を一つだけ示せと言われたら、僕は「只管しかん」という言葉を挙げます。只管は説明しにくい言葉ですが、英語で何と言うかと問われたら、“Be one with what you do”(今していることと一体になること)と答えるでしょう。

飯を炊くときは「〈只管〉飯炊き」、掃除をするときは「〈只管〉掃除」。このとき、仏が現成する、というのが曹洞宗の教えです。只管で飯を炊けば、〈飯炊き仏〉がそこ●●に現れるし、只管で掃除していれば〈掃除仏〉がそこ●●に現れる。

――Cooking Buddha, Cleaning Buddha.

後編は、マインドフルネスを深めてゆくための“formal practice”としての「坐禅」についてのお話です。(後編につづく)

藤田一照
1954年、愛媛県生まれ。webサイト寺院「磨塼寺」住職。東京大学大学院(発達心理学専攻)を中途退学し、兵庫県新温泉町、安泰寺にて得度(29歳)。33歳で単身渡米し、マサチューセッツ州ヴァレー禅堂に住持。2005年に帰国、坐禅指導にあたる。著書に『現代坐禅講義—只管打坐への道』(佼成出版社)。プラユキ・ナラテボー師との共著に『仏教サイコロジー—魂を癒すセラピューティックなアプローチ』(サンガ)がある。
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