日本伝統仏教者のためのマインドフルリトリート

【基調講演3】「仏教における戒律の問題と、マインドフルネスの意義」

蓑輪顕量先生
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瞑想を深めるメカニズム

このつかまえられる対象、それから心の中に出来上がるイメージ、そして捉まえている心の働きの三つで、認識機能を説明できそうな気がしますが、お釈迦様は、他にも、これとは違う心の働きがあることに気が付きました。その一つが「感受」です。先程の、楽という感じ(思い)、苦という感じ、それから楽でも苦でもないという感じ。そして、もう一つ大事なのが、潜勢力せんせいりょく「行(サンスカーラ)」です。

これは、体験的なところから出てきたのでしょう。私たちが外界に存在しているものを、眼という感覚器官を通じて描き出している時に、見た通りに描いているかというと、そうでもありません。

『摂大乗論』には、道端に落ちている縄をヘビと間違える、という比喩があります。もし私たちの眼が、あるがままのイメージを必ず描くという働きを持っていたら、縄をヘビと取り違うことは決して起こり得ません。つまり縄をヘビに間違えるというのは、縄がヘビの形に、頭の中で描かれているはずなのです。

そして「〇〇だ」と判断できるのは、それを〇〇と知っていた、ことから可能になります。初めて目にするものだったら判断できないからです。ということは、「〇〇だ」というしきの働きが生じた時には、やはり何らかの力が働いている。過去の記憶が呼び覚まされるような力があるのではないか、そう考えて「行(サンスカーラ)」という名を付けました。

このようなことから、私たちが捉えられた対象を像として心の中に描くとき、既に何らかの働きが生じて、影響を与えているのではないか、ということが考えられたのです。

私たち人間は、物質的な要素と、四つにカテゴライズされる精神的な働きがただ和合して存在しているに過ぎないのだ(五蘊仮和合ごうんけわごう)。とお釈迦様は考えていましたが、それでは「五蘊ごうん」の働きが、私たちの心の中にあることに気づくプロセスは何処から始まるのか――。それには、対象に「気づいていく働き」と「気づかれている」もの。この二つに分かれていることから入ってゆくのです。

つかまえている心の働きを「名(ナーマ)」と言い、捉まえられている対象を「色(ルーパ)」と言います。一つの動作、気づきだと思っていたことが、二つに分離され、「みょう」と「しき」に分けられる。「名色みょうしき」の分離から、それがもう少し細かく見られるようになってくると、「感受」とか「行」と言われるようなところまで見られるようになっていきます。

ですから、五蘊ごうんを自覚するための最初の入り口は、「名色」の分離と考えてよいのです。捉まえている感覚と捉まえられている対象。そう区分ができるようになると、この五蘊の世界に入って行けるようになっているのです。

蓑輪先生の基調講演に熱心に耳をかたむけるリトリート参加者

お釈迦様の瞑想から「ヴィパッサナー瞑想」へ

さて、いよいよ実際の瞑想法の実践です。

心の観察法は、最初は「念処」でしたが、やがて「サマタ(止)」と「ヴィパッサナー(観)」という名前で呼ばれるようになっていきます。これはおそらく、お釈迦様の「サティパッターナ(念処)」という観察方法が、機能的にあるやり方をしていると心の働きが静まる方向(止)、と、様々なものに気づいて行く方向(観)との二つになったということのようです。

心の働きを静めて行く観察法は「止」という名前で呼ばれて、「戯論」が生じないように私たちの心を整えて行く観察の仕方の方は、「観(ヴィパッサナー)」という名前で、呼ばれるようになったのであろうと推定することができます。

心の働きを静める観察の仕方は、「サマーディ」と「ジャーナ」。「三昧」と「禅那ぜんな」という名前でも呼ばれます。その特徴は、心を一つの対象に結びつけることです。心を一つの対象に結びつけると、心の働きが静まってくる訳です。

そして、もう一つの方は、心の中に生じてくる様々な思い、私たちの身体に起きていることをありのままに、なるべく数多く見つめて行く、気づいて行くというのが、「ヴィパッサナー」になります。

『大念処経』、『念処経』には、鍵となる言葉「正知」とか「念」という言葉が登場します。

「比丘たちよ、この道はもろもろの生けるものが清まり、憂いと悲しみを乗り越え、苦しみと憂いが消え、正理を得、涅槃を目の当たりにみるための一道である。すなわちそれは四念処です。四つとは何か。ここに比丘は、身に於いて身を観つづけ、熱心に、正知をそなえ、念をそなえ、世界における貪欲と憂いを除いて住みます」

下線部分がたいへん興味深いところで、対象を見続けている、それを「正知をそなえ、念をそなえ」と表現しています。この「正知」と「念」と呼ばれる心の働きはどんなものなのか――、それが非常に大事になってきます。そして、この「正知」と「念」の二つの言葉が、やがて「知る」という単語のみで表現されるようになります。

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