日本伝統仏教者のためのマインドフルリトリート

【基調講演3】「仏教における戒律の問題と、マインドフルネスの意義」

蓑輪顕量先生
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總持寺境内で「歩く瞑想」を実践するプラムヴィレッジ僧侶団

「私は、歩いていると知っている」

「さらにまた比丘たちよ。比丘は行っているときは『私は行っている』と知ります。あるいは立っているときは『私は立っている』と知ります。坐っているときは『私は坐っている』と知ります」。

これは、漢文ですと「行住坐臥ぎょうじゅうざが」と言い表されますが、歩いているときは、歩いていると知っている。立っているときは、立っていると知っている。坐っているときは、坐っていると知っている。このように「知ります」という言い方をしていて、「念」という言葉は余り出てこなくなります。

つづけて「正知」が重要な言葉となって現れます。

「比丘たちよ、比丘は進むにも、退くにも正知をもって行動します。真っ直ぐ見るにも、あちこち見るにも、正知をもって行動します。曲げるにも、伸ばすにも、正知をもって行動します。大衣と鉢衣を持つも、正知をもって行動します。食べるにも、飲むにも、噛むにも、味わうにも、正知をもって行動します。大小便をするにも、正知をもって行動します」。

日常の動作を、全て「正知」、「正しく知っています」という訳ですが、これは、現代風に言うと「気づく」(マインドフルネス)です。

ここで「念ずる」「正しく知る」といった場合、日常的には、言葉が介在して何かを知るというニュアンスにも聞こえます。しかし、修行の中で出てくる「知る」という単語は、言葉を介在させないで、対象を捉えていると解するのが正しいと思います。それは、言語機能を介在させず、対象を細かく捉える心の機能です。

――はたして、言語機能を介在させないで、対象をきちんと捉えることが可能なのか。お釈迦様の偉大さは、私たちが世界を認識する際、言葉を介在させないでそれを可能にする働きが内在していることに気づいたことにあります。

ところで、紀元前二世紀ぐらいの伝承と考えて良いと思いますが、『ミリンダ王の問い』という経典の中に、「サティパッターナ(念処)」の定義が出てきます。その方法は、動作を言葉で確認しながら、かつしっかりと領解することが実践されていたと推定されます。しかし集中が持続できるようになると、言葉の働きがなくても対象をきちんと捉まえることが出来ることに気づいていたようです。そして、対象をきちんと捉まえている状態を、後世の『念処経』の中で「正知」「知る」というふうに表現した、と考えられるのです。

ですから、言葉の介在がなく対象をきちんと捉えていることが、実は、心の観察では一番、大切なことになっていくのです。この働きが私たち人間の中には備わっていて、それを意識化して気づいていけるようになる。それがお釈迦様から伝わった「気づきの瞑想」、「マインドフルネス」としても過言ではありません。

言葉の持つ問題点――修行者の心得

『スッタニパータ』には、次のようにあります。

「およそ苦しみが生ずるのは、すべて識別作用によって起こるのである。識別作用が消滅するならば、もはや苦しみが生起するということは有りえない」

「『苦しみが識別作用に縁って起こるのである』と、この禍いを知って、識別作用を静まらせたならば、修行者は、快を貪ることなく、安らぎに帰しているのである」

今、この一瞬一瞬を捉まえる心の働きを起こして、対象をしっかり捉まえることができれば、そこから先には心の働きは動かなくなっていきます。いわゆる「第二の矢」が生じない状態に入っていく、ということです。

そして、これはまた、幼少の頃から身についた馴染みの心の反応から脱却することが可能になる、ということでもあります。

私が、今、少し気になっているのは、「サティ(念)」を強調し過ぎる余り、常に言葉で捉まえることが大切だ、とする意見もあるようです。確かに言葉で捉まえることも大事なのですが、言葉だけですと、実際の動きと異なって、単に言葉だけが回転していってしまうことがあるのです。

言葉は、非常に大きな問題を抱えていて、次々と他の働きを引き起こしていきます。言葉は実体化していきますし、そして、それに執着していくことが起こります。ですから、言葉ばかりになってしまうと、肝心なところから離れていって、執着の世界の方に引きずられる危険性もありますので、注意が必要です。

さらに私たちは、〈同時〉に「気づく」ことも出来ます。そうすると、どういう状態が生じるか。心が走らない。「第二の矢」が生じない状態という、心(脳)の中に【回路】が出来るのです。結果、悩みや苦しみを生じさせない方向に、私たちは変わって行くことが出来るのです。

「気づき」を深めて見えるもの

こうして、今、この一瞬一瞬に気づいて行くことをずっと、常にやっていきますと、驚くような事態が生じてきます。

というのは、私たちの心というのは、あまり容量が多くないのだそうです。これは心理学の分野からの報告ですが、私たちの心は様々なものに気づいて行くと、心の働きは、全体の容量が余りないので、多くに気づこうとすると、限界点に達すると言われています。

しかし、それでも気づき続けて行くと、こんどは生体の防御反応が働いて、今まで気づいていた心の働きが、フッと無くなってしまう状態が生じるのだそうです。

私たちの心の働きは、他のものと区別立てをする心(分別)と、その上で言葉が生じてくる段階(名言)から様々な囚われ(尋思)に入ることはお話ししましたが(*)、その分別する心の働きすらなくなってしまう状態が出現するのです――すると、どうなるか。いわゆる「無分別」と呼ばれる、全てが繋がってしまうような、繋がっているように見える状態が生じると言われています。

そのように、一つ一つに気づいていった末に心の容量オーバーが起きると、気づいている言葉の働きが全て一瞬にしてなくなって、全てが繋がって見えるような状態が、しばらくの間、訪れる。これが「無分別」の状態です。その時には、見ているもの、視覚で捉えられているものが全部繋がっているように見える。音が入ってきたら、本当に、純粋に音だけが聞こえている状態になるのです。経典には、この時「歓喜かんぎ」が生じるとあります。

とはいえ、無分別の境地を体験することが、「ヴィパッサナー」の目的ではなくて、本来は「第二の矢」が生じないように、「戯論」が生じないように、私たちの心(脳)に【回路】を作って行くことが、実は「ヴィパッサナー」の一番大事なことなのではないかと思っています。

そして、それはどんな境地なのでしょうか。

「寒さ、暑さ、飢え、乾き、虻、蚊、風、熱、蛇との接触や辛辣で不愉快な発言に耐え、身体に生じる苦しい、激しい、ひどい、つらい、嫌な、不快な、死にそうな感覚をこらえられるようになる」(『ダンマパダ』)

日常生活の中では、実は、ここで言われているような感覚は、やはり修行者にも生じるようです。

生じるのですが、それに対してちゃんと堪えられるようになる。いろいろなことがあっても〈中立的〉な立場で物事が考えられるようになる、そう言っています。嫌な思いがもたらされても、それに支配されずにちゃんと物事に対峙することができる、と言うのです。

ティク・ナット・ハン師は、「『マインドフルネス』を修行した人は、紛争解決の場に赴いても、常に中立的な立場を取ることがちゃんとできるのだ」と仰っていました。まさにそれは、この、物事に堪え中立な立場を堅持していられる、この境地だと私は思っているのです。

ティク・ナット・ハン師

(次回へ続く)

蓑輪顕量みのわけんりょう
1960年、千葉県生まれ。東京大学大学院教授。東京大学大学院を終了。博士(文学)。愛知学院大学文学部助教授、教授を経て、2010年4月より現職。専門は日本の仏教、仏教思想史。一般書として『日本の宗教』(春秋社、2007)、『仏教瞑想論』(春秋社、2008)、『日本仏教史』(春秋社、2015)、編著に『お経で学ぶ仏教』(朝日新聞出版、2012)、『事典 日本の仏教』(吉川弘文館、2014)などがある。
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