苦しみと私はイコールではない
「苦しみがある」という事実は事実として認め、それにハマり込んで「苦しんでしまう」こととは別物なんだということをまず理解する必要があります。これが四聖諦の第一番目の「苦諦」です――この場合の「諦」は「あきらめる」の意味ではなくて、「あきらかにする」の意味です。すなわち、「人生に苦しみはつきものだ、あきらめなさい」などとブッダは言っていません。苦しみの克服のために、まず「苦しみがある」ということをあきらかにしていきなさい、すなわち、苦しみから目を背けることなく、しっかりと自覚していきなさい。それによって苦しみからの解放の道が開かれる、と仰ったのです。ちなみにこの「諦」という字は、「真理」という意味でも使われます。
もう一度整理しますと、苦しみがある、それをちゃんとしっかりと認識する、そのうえで、その苦しみという事実とそれにはまり込んで「苦しんでしまう」こととは別物であるということを理解する。さらにそれは苦しみという現象であり、「私」でもなく、「私のモノ」でもないと知ることが、苦しみの解放にあたっての第一番目の真理です。
苦しみという現象は、刻一刻いろんな条件によって生じてきます。それにハマり込んで、苦しんでしまわずに、「苦しみがある」という事実をしっかり見極めていく。まずわたしたちは、このスタートラインに立てないとゴールまでたどり着けないことは確かです。
――スタートラインにすら着けないというのは、どういう理由からでしょう。
スタートラインに着けない理由は、苦しみにハマリ込んでしまう。あるいは苦しみに遭遇した時に、それに反発して嫌悪感を持ったり、否定しようとしたりする。言ってみれば、苦しみからの逃避です。あるいは、不毛な善悪論争に時間を費やしたり、形骸化した儀式にこだわったり、疑心暗鬼や妄想を膨らませているうちに、いつの間にか苦しみに向き合うことを先延ばししてしまうということもあるでしょう。これらが苦しみというスタート。それをあるがままに見る、というスタートラインに着けない理由です。それゆえにいつまでたってもゴールまでの歩みを進めていけないのです。
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