【編集部注】「仏教的カウンセリング」では当ダーナネット編集部が公募した「悩み相談」に解答をしていただいております。
ご相談者の許可のもと編集の上で掲載しています。ご本人の希望で名前は匿名とさせていただきます。
「人の目が気になります。自分の考えや行動が、他人にどう思われているのか常に気になります。動揺してしまい、自分の言いたいことや、やりたいことを、自信を持ってできません」
なるほどね。そういった課題を克服するには、二つのアプローチがあります。
ひとつは、具体的なコミュニケーションによる克服。「疑心暗鬼」というような言葉がありますが、一度そういった思考にハマり込んでしまうと、現状をあるがままに見ることができなくなり、どんどんどんどん妄想といいますか、自分の視点で閉塞的に考え込んでしまうことになります。
そこでひるまずに勇気を持って、相手とコミュニケーションをとっていく。そのうちに慣れてきて、相手の視点に対して心を開いてありのままに聞くこともできるようになってきます。そうしたら相手の意向を参考意見として取り入れて、その上で自分が一番良かれと思うことをやってみる。
こういったことを日頃から繰り返していれば、自然と自信もついてきて、家族関係であれ、職場での関係であれ、自分の思考にハマってこじらせることがなくなり、一つひとつ適切に対応していくことができるようになりますよ。
ということで、まずはチャレンジしてみるということ。やってみれば必ず学びがあるし、たとえ失敗してもいちいち動揺しなくなります。
私も、何度も何度も失敗してきました。でも、そのつど学びにしていけばいいんです。毎回相手からのフィードバックを受けて、そこから学んで向上していく。それって一番ためになることなんですよ。だから勇気をもって、一歩、踏み出してみましょう。
もうひとつは、瞑想的な訓練による克服です。
「人目が気になります」と言っている“見られている感“が強い人は、いわば自分を「見られている側」として認知しているのです。だから逆に、「見る側」になっていけばいいんです。
「人から見られている」と感じている自分を客観的に見る
作画・鈴木勝美(ざぼん)
気づきの瞑想では「能動的に見る」という訓練をしていきます。そのうちにだんだんと「見る側」になっていき、人に見られている感は自然と軽減していきます。そして、「視線が痛い」と感じることもなくなっていきますよ。
それからついでにもう一つ。「見られている側」のままで、人の視線が痛くなくなる方法があります。
要は「肯定的に見られている」というふうに思えればいいわけです。すなわち、人の視線に「痛めつけられている」と認識するのではなく、「あたたかく見守られている」と認識できればいいわけです。これも実は自分自身の意味づけ次第なんですね。これには慈悲の瞑想が有効です。人の幸せを祈る言葉は、実は同時に、自分自身も心のなかで聴いているからです。
プラユキ・ナラテボー
※慈悲の瞑想とは…慈悲の思いを込めた祈りの言葉を唱える瞑想法の一つ。たとえば「すべての生き物たちは喜びに満たされますように」など。
タイのチュラロンコン大学大学院に留学し、農村開発におけるタイ僧侶の役割を研究。1988年、瞑想指導者として有名なルアンポー・カムキアン師のもとにて出家。以後、自身の修行のかたわら、村人のために物心両面の幸せをめざす開発僧として活動。またブッダの教えをベースにした心理療法的アプローチにも取り組み、医師や看護師、理学療養士など医療従事者のためのリトリート(瞑想合宿)がスカトー寺で定期的に開催されている。
近年は、心や身体に問題を抱えた人や、自己を見つめたいとスカトー寺を訪れる日本人も増え、ブッダの教えをもとにしたサポートを行っている。日本にも毎年招かれ、各地の大学や寺院での講演、ワークショップから、有志による瞑想会まで、盛況のうちに開催されている。
「気づきの瞑想」を生きる タイで出家した日本人僧の物語
著者:プラユキ・ナラテボー
出版社:佼成出版社
定価:本体1,800円+税
発行日:2009年8月
「気づきの瞑想」で得た苦しまない生き方
著者:カンポン・トーンブンヌム
監訳:プラユキ・ナラテボー
出版社:佼成出版社
定価:本体1,400円+税
発行日:2007年11月
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