【編集部注】「仏教的カウンセリング」では当ダーナネット編集部が公募した「悩み相談」に解答をしていただいております。ご相談者の許可のもと編集の上で掲載しています。ご本人の希望で名前は匿名とさせていただきます。
メッセージ本文:今年に入って、朝5~10分の短い時間ですが手動瞑想をしています。そのお陰で思考のはまり込みに早く気づけるようになり、子供にもヒステリックに怒ることがなくなりました。今では他の瞑想にもチャレンジしているのですが、瞑想によって何か得たいと結果を求めてしまいます。
例えば「瞑想中に普段味わえないような幸福感を得たい」や「普段感じられないスピリチュアルな経験はできないか」と思ってしまい、瞑想に集中できないこともあります。
結果を求めるのは良くないとわかってはいるのですが、どうしても「もっと良くなりたい」と言う気持ちが出てしまいます。
何か解決策はありますでしょうか。
質問者:まっく
「早晩そうした渇望も薄れ、あるがままの観察が心に真の自由をもたらすことを体得されることでしょう」by ナラテボー
作画・鈴木勝美(ざぼん)
短時間ながら毎日コツコツと瞑想を続けられ、思考へのはまり込みに気づき、子供にヒステリックに怒ることがなくなったとのこと、グッジョブ! まっくさんの努力の賜物かと思います。
それから、「瞑想中に普段味わえないような幸福感を得たい」というのは、「瞑想者あるある」ですね。そうした特殊な体験を求めて瞑想を始める人、あるいは、「少しでも心が楽になれば」という気持ちで瞑想をスタートしたものの、続けているうちにいつの間にか至高体験や変性意識体験を求めるようになってしまったというケース、よく見受けます。
もちろん私自身も例外ではなく、やはり最初はそうした特殊な精神状態や境地に憧れのようなものがありました。しかしブッダの教えを学び、気づきの瞑想を続けているうちに、それは違うなということが次第にわかってきたのでした。
なぜならブッダ自身、それを「瞑想に付随していくる煩悩(ヴィパッサナー・ウパキレー)」と称し、そうした特殊な意識状態は条件が整えば生じてくるが、それにとらわれてしまうことで修行が進まなくなると明確に説かれています。
また実際に、私自身も修行を通じて様々な意識経験をしてきましたが、いずれも真に満足を与えることがなく、逆にそうしたものを求める気持ちが薄れるに連れて法(ダンマ)の理解も進み、心も自由になっていくのを実感できたのでした。
というわけで、そうした「スピリチュアルな経験」への渇望は誰でもが一時期お熱を上げる症状と理解し、そうした思いが現れても無闇に消そうと焦らず、あるがままにその思いを観察していかれたらよろしいかと思います。早晩そうした渇望も薄れ、あるがままの観察が心に真の自由をもたらすことを体得されることでしょう。
また、「もっと良くなりたい」という気持ちが出てくる、ということですが、ブッダの教えを学び、瞑想など地道に実践されていけば、必ず良くなっていきます。ただそれは、神秘的な体験をするようになるということを意味せず、自他の抜苦与楽が実現するということです。そしてそれこそが真に価値あることだと実感されるでしょう。また、「良くなること」は、あくまでも「結果」です。ぜひそれを生じさせしめる「原因」である今ここでの仏道の実践に励まれてください。応援しています!
プラユキ・ナラテボー
タイのチュラロンコン大学大学院に留学し、農村開発におけるタイ僧侶の役割を研究。1988年、瞑想指導者として有名なルアンポー・カムキアン師のもとにて出家。以後、自身の修行のかたわら、村人のために物心両面の幸せをめざす開発僧として活動。またブッダの教えをベースにした心理療法的アプローチにも取り組み、医師や看護師、理学療養士など医療従事者のためのリトリート(瞑想合宿)がスカトー寺で定期的に開催されている。
近年は、心や身体に問題を抱えた人や、自己を見つめたいとスカトー寺を訪れる日本人も増え、ブッダの教えをもとにしたサポートを行っている。日本にも毎年招かれ、各地の大学や寺院での講演、ワークショップから、有志による瞑想会まで、盛況のうちに開催されている。
「気づきの瞑想」を生きる タイで出家した日本人僧の物語
著者:プラユキ・ナラテボー
出版社:佼成出版社
定価:本体1,800円+税
発行日:2009年8月
「気づきの瞑想」で得た苦しまない生き方
著者:カンポン・トーンブンヌム
監訳:プラユキ・ナラテボー
出版社:佼成出版社
定価:本体1,400円+税
発行日:2007年11月
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