【編集部注】「仏教的カウンセリング」では当ダーナネット編集部が公募した「悩み相談」に解答をしていただいております。ご相談者の許可のもと編集の上で掲載しています。ご本人の希望で名前は匿名とさせていただきます。
「手動瞑想を始めて6カ月になります。毎日朝晩2回、各30分しております。抜苦与楽も少しづつ進んでいるとの実感もできておりました。
しかし、最近手動瞑想を始めるとおでこ付近が締め付けられる感覚があり、多少の痛みも感じ、継続に支障をきたしております。瞑想中、痛みを観察したりしましたが、一向に頭の締め付け感は消えてゆきません。今はこの感覚をだましだまし、瞑想をしている状況です。質問です。
この状況でも手動瞑想を継続することで、いづれこの感覚は無くなってゆくものなのか(越えるべき壁なのか)? またはこの状況は何か手動瞑想のやり方が間違っているのか? お教え頂けるとありがたいです。
質問者:しらかば
「気づきを伴わせながらお皿洗いやお掃除をやっていくことをお勧めしたいと思います」by ナラテボー
作画・鈴木勝美(ざぼん)
手動瞑想を毎日朝晩2回、30分づつ、6カ月に渡って継続され、抜苦与楽も進んでいる実感が出てきたとのこと、よかったですね。しらかばさんの努力の賜物かと思います。ところで、そんな矢先、「最近手動瞑想を始めると、おでこ付近が締め付けられる感覚があり、多少の痛みも感じる」といった症状が現れてきたとのことですね。
文面からは、詳細がわからず、それゆえ原因を断定することはできませんが、以前はそうした症状も現れず、問題なくやれていたということですから、よくあるケースとしては、瞑想とは全く関係なく生じてきた頭痛が何らかの要因で手動瞑想と関連づけられ、その後は手動瞑想を行うたびに痛くなる、といった神経回路ができあがってしまったことも考えられます。いずれにせよ、どんな瞑想であれ、身体の違和感が継続する場合は、無理せずにいったん休止されることをお勧めします。
特に、「痛みを観察したが、一向に頭の締め付け感は消えてゆきません」とありましたが、こうした時に、無理して痛みの観察をすることはお勧めできません。なぜなら、そうした部分に集中することが、逆に痛みを増幅させてしまったり、そのように気にすることが、痛みの神経回路の固定にもつながったりするからです。
ということで、手動瞑想は少しお休みされて、歩行瞑想や生活の中での気づきの瞑想、例えば、気づきを伴わせながらお皿洗いやお掃除をやっていくことをお勧めしたいと思います。
そうして気楽に歩行瞑想や生活の中での気づきの瞑想をやっているうちに、痛みのことが気にならなくなってくるかと思います。それで、「ちょっと手動瞑想も」という気持ちが起こってきたら、気軽にまずは数分間だけ、手動瞑想を挟んで様子をみてもOKです。それでもし頭痛が起こってこなければ、少しずつ時間を長くしてみるのもいいでしょう。そのうちに以前のように問題なく手動瞑想をできるようになるかもしれません。
手動瞑想でも歩行瞑想でも、また日常生活での気づきの瞑想も、今ここに気づく力(サティ)を培っていくというコンセプトは同じで、その効果に変わりはありません。ですから、手動瞑想にこだわらずに、ぜひこの機会に歩行瞑想や日常生活での気づきの実践に取り組んでみることをお勧めしたいと思います。なお、歩行瞑想のやり方の詳細について、こちらで説明しておりますので、どうぞご参考ください。
「歩行瞑想【解説】」:https://dananet.jp/?p=6368
プラユキ・ナラテボー
タイのチュラロンコン大学大学院に留学し、農村開発におけるタイ僧侶の役割を研究。1988年、瞑想指導者として有名なルアンポー・カムキアン師のもとにて出家。以後、自身の修行のかたわら、村人のために物心両面の幸せをめざす開発僧として活動。またブッダの教えをベースにした心理療法的アプローチにも取り組み、医師や看護師、理学療養士など医療従事者のためのリトリート(瞑想合宿)がスカトー寺で定期的に開催されている。
近年は、心や身体に問題を抱えた人や、自己を見つめたいとスカトー寺を訪れる日本人も増え、ブッダの教えをもとにしたサポートを行っている。日本にも毎年招かれ、各地の大学や寺院での講演、ワークショップから、有志による瞑想会まで、盛況のうちに開催されている。
「気づきの瞑想」を生きる タイで出家した日本人僧の物語
著者:プラユキ・ナラテボー
出版社:佼成出版社
定価:本体1,800円+税
発行日:2009年8月
「気づきの瞑想」で得た苦しまない生き方
著者:カンポン・トーンブンヌム
監訳:プラユキ・ナラテボー
出版社:佼成出版社
定価:本体1,400円+税
発行日:2007年11月
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