インタビュー

“私”の成立とその正体 スカトー寺副住職 プラユキ・ナラテボー④(最終回)

  • このエントリーをはてなブックマークに追加
  • LINEで送る

――いよいよweb連載の最終回になります。これまで、苦しみを滅する方法についてお聞きしてきました。苦しみを滅した先には、どのような心境があるのでしょうか。

苦と共に生じてくるものは慈悲心

web連載の第1回目で、苦しみの滅のお話をしました。

そして第3回目には、苦から滅苦へというプロセスを経ていく中で、智慧や慈悲も “念・定・慧ねんじょうえ”対応を繰り返していくことによって生じてくるということをお話ししました。

ふっと生じてきた現象に対して“貪・瞋・痴とんじんち”反応をしてしまうと、同時に苦しみが生じてくる。「此れあれば彼あり」という縁起が生じたわけです。そうした反応が繰り返されれば、苦しみがただただ続くばかりですが、ところがそこで、すかさず“念・定・慧ねんじょうえ”対応にチェンジすれば、その瞬間に苦しみは滅していく。「あ、苦しみって、こうした反応から生じてくるんだ。でも、こうやって対応すると消えていくんだ」。このような感じで、苦の生起の因果と苦の消滅の因果が同時包摂的に視野に入り、四聖諦ししょうたいや縁起の全体像が見えてくるというのが智慧です。

八正道の第一支に「正見」がありますが、正見というのは、「私のせい」「誰々さんのせい」というようには見ない見方です。つまり、人や衆生として見るのではなくて、ただ縁起による現象の生起や消滅として物事を見られるようになることを言います。

そして、こうした事実をはっきりと見極めたときに、「ああ、苦しみというのは、自分のせいでもなく、誰々さんのせいでもない。ただただ無明によって生じてくるものだったんだ」と看破され、苦しみに苛まれる一切衆生への共感の思いが生じてくるのです。

「誰々さんのせいではなく、みんな無明なんだね。十二因縁の輪から出て行く方法を知らず、あるいは八正道の実践をする機会もなくて、貪りに駆られたり、怒りに翻弄されたりして、迷いながら苦しみの輪をずーっと回り続けているんだね」ということがわかり、それによって、「人間って悲しいね。無明って本当につらいよね」というような共感の心が芽生えます。そして、苦しんでいる友のために何らかのお手伝いをさせていただきたい、という慈悲の気持ちも育まれていくのです。

ここにおいて、本当の意味での共感能力、慈悲にもなっていくわけです。

無明から八正道の実践へ

ともすると私たちは、怒りを嫌悪したり、否定したりする方向に行ってしまいがちです。当然、怒りは悪いと思い込んでいるわけだから、自分の怒りも否定すると同時に、人の怒りを見たときにも即座に嫌悪を感じたり、否定したりするような感じになってしまう。

そうではなく、無明ゆえに、無知ゆえに、苦の世界をさまよっているのだということをあるがままに見る。と同時に、自ら八正道を実践して、苦の輪廻の輪からしっかり出られた時に、一切衆生の苦しみに共感でき、かつ、そこからの脱出の道も示してあげられることになるわけです。

四聖諦の全体像や体系をちゃんと理解していくというのは、心を否定してしまうことでも、ある種の静かな境地に拘泥してしまうということではありません。そのような境地に拘泥していては、起こらない理解だと言うことです。それゆえ、三学と呼ばれる戒、定、慧という修行階梯がありますが、ブッタは“定”をゴールとはみなさなかったわけです。

定、すなわち心の落ち着きをある程度培ったら、そこに留まらずに、安定した心を基盤としたうえで、明晰に物事の生起、消滅していく縁起をあるがままに観ていく。これが智慧の段階です。ある種の心の状態をつくることを求め続けている限り、智慧は生まれてこないという話になるわけです。

  • このエントリーをはてなブックマークに追加
  • LINEで送る