インタビュー

ブッダの瞑想法――その実践と「気づき(sati)」の意味(1)

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テーラワーダ仏教が伝わるスリランカの仏像

Q3   気づきの状態とは、どういうものですか。

瞬間瞬間、自分という身心に起きている現象に、先ほどお話しした四念処、つまり身体、感覚、心、法(ダルマ)のチャンネルで気づいている状態のことを言います。具体的にいうと、身体の観察(身隨観)では、身体の要素・日常の動作や呼吸など身体の機能を観察します。身体の機能は必ず感覚を伴って起こりますから、その感覚にフォーカスすると感覚の観察(受随観)になります。四つのチャンネルと言っても密接につながっているものです。

ただ、やりやすいのは身体の動きの観察ですよね。立っている状態だったら、立つまでの動き、立っている時の身体の状態を観察する。呼吸するたびに身体が膨らんだり縮んだりする動きを観察する。あと、日常の動作ですね。歩いている場合は歩いている状態を観察する。それと、身体にはいつでも感覚があるでしょう。いつでも不快・快・中立(苦・楽・不苦不楽)の感覚が現れては消え、現れては消えしていますから、それを淡々と観察する。

たとえば、いわゆるマハーシ式だと、お腹の膨み縮みを観ます。膨らんでいる時と縮んでいる時の感覚は、瞬間瞬間違っていて、変化しています。感覚の変化を、瞬間瞬間、観察していくと、そこにすごいダイナミズムがあると分かるんです。心の観察(心随観)の場合は、心の変化です。心が大きくなったり小さくなったり、暗くなったり明るくなったり、そういう心の変化を観察してゆく。それから、現象を成り立たせている様々な真理、現象世界から離れていくための様々な真理を観察してゆく。身・受・心・法という四念処、その四つの角度・アプローチで観察していく、ということになります。

身体の要素観察には、三十二分身の観察というのがありますね。身体の表面から髪の毛、体毛、皮膚、爪、歯、皮膚の中にあるもの、大便、小便、体液、胃液とか、あとは肺や肝臓や腎臓、脳みそなどの内臓とか骨とか。私たちが大事に手入れしている身体も、ひとつひとつの部品を取り出してみればすごく気持ちの悪い、不浄なものでしかない。それを確認してゆく、いわゆる解剖学的な瞑想ですね。

日本では実践できないと思いますが、死体が徐々に腐って朽ち果てていく様を実際に観察するやり方もあります。昔のお坊さんたちは、墓場や死体捨て場に行って、身体が壊れていく様子を観察していた。それも身念処、一つの身随観です。日本でなかなかできないことです。でも、スーパーに行って、生鮮食料品売り場を覗いてみて下さい。魚の切り身と言ったって、それは「死体」の一部ですからね。豚肉も鶏肉も神戸牛の霜降りも、肉は死体ですから。それも観察になります。「美味しそう」どころではなくなりますから、日常生活の中でそこまでやる人はなかなかいないでしょうけれど――。

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