インタビュー

ブッダの瞑想法――その実践と「気づき(sati)」の意味(2)

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日本テーラワーダ仏教協会(渋谷区 宗教法人)の編集局長として、仏教や瞑想に関する情報発信を長年続けてきた佐藤哲朗さんに、ヴィパッサナー瞑想法のあらましと、実践にあたって理解すべきポイント、また初心者が陥りやすい誤解などについて伺いました。4回にわたって連載します。

日本テーラワーダ仏教協会:アルボムッレ・スマナサーラ長老の指導のもと、お釈迦さまの教え(初期仏教)を社会に紹介し、人々が法を学び修行できる環境を整え、生きとし生けるものが幸福に達するためのお手伝いをする目的で活動している。

佐藤哲朗氏(幡ヶ谷・ゴータミー精舎のブッダ像 前で)

Q1   瞑想したら、怒らなくなりますか。

残念なことですが、いくら瞑想してたって、怒るときは怒っちゃいますよ。怒りという煩悩(結)が消えるのは、第三の解脱(覚り)である「不還果」という段階です。ほとんど最終的な覚りに近いところです。そこまでいかない限り、まったく怒らなくなる、ということはあり得ません。われわれにできるのは、怒ったときには、「怒っているな、怒り始めているな」と気づいて炎上させないこと。欲や怒りに飲み込まれない、ということです。そうすれば、怒りに我を忘れて衝動的に人をぶん殴るというような危険は少なくなります。

基本的に、「わたし」「わたしの」「わたしのもの」という自我の錯覚が、他の煩悩を燃やす燃料になっているのです。たとえば、「わたしのもの(It’s mine)」という衝動は、対象を自分に引き寄せようとするエネルギーです。それが人間の執着心を燃え上がらせる燃料となります。

つまり、こういうことです。「わたし」「わたしの」といっても、それはただ単に瞬間瞬間に起きる現象だし、“わたし”という確固たるものがあるわけでもない。そう納得できれば、そんなに怒らなくても、人と喧嘩するほどのことでもないだろう、というところで落ち着くんです。「なにも、そこまで怒らなくても……」ということになるのです。

気づきの実践をつづけて、「わたし」という実体はないんだ、という真理に納得したならば、感情があったとしても、理性のほうが勝った人になっています。つねに自分(という現象)を客観視できるから、怒りに我を忘れるというようなことはなくなるのです。

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