インタビュー

ブッダの瞑想法――その実践と「気づき(sati)」の意味(3)前編

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他界2日前スマナサーラ長老に最後の挨拶をする寺猫ナミと見守るサーリー

――そういう境地に達している人は現代社会にいるのでしょうか?

いるでしょうね。じゃぁ、どのくらいいるのかと訊かれても、それはわからないですけれども、スマナサーラ長老に伺ってみると、「瞑想をして結果を出してる人は割といますよ」などとさらっと仰っていますが……。

ただ、われわれにそのような人たちのことがあまり見聞できないのは、結局、解脱に達した、煩悩が無くなった人というのは、自我意識がないからです。基本的に自己主張がない。

「おれが、私が、覚った」っていうことは、私という実感がない人にとって、文章として成り立ちませんよね。私が覚ったっていうのもおかしいじゃないですか。違和感がありすぎて、そんなこと言えないですよ。「あなた、覚ったの?」と訊かれても、「えっ?」としか答えようがない。

だからそういう意味では、「ハイ。私、覚りました」っていう人はいないんじゃないでしょうか? 解脱・涅槃に達したといっても、普通にニコニコして生きているし。他の人と変わらないで生活しますからね。見た目ではわからないと思いますよ。

――それはインドの言葉でいうとどういう? たとえば阿羅漢とかという呼称もありますが。

阿羅漢というのは究極的な覚りに達した聖者のことです。お釈迦さまと同じく、輪廻から完全に解放された方ですね。阿羅漢がどれだけいるかというのもよくわかりませんけど。
繰り返しになりますが、仏教の考え方に慣れると、そういう問いの立て方自体、なんかちょっと変だなと思ってしまうんです。

もちろん、瞑想してその人が心の安らぎを得ることもなく、なんの結果もないっていうのは、おかしな話です。結果はあるんですけど、その結果というのは、肩書きが増えるとか、勲章をつけるとか、そういうことじゃない。覚ったら、いきなり頭から角が生えてくるっていう話ではないのです。自我の幻覚に苦しむことなく、ただ普通に生きている。それでいて、生きることに執着がない、葛藤がないという境地の話なので、なかなか一般の人には良くわからないかもしれないですね。

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