インタビュー

ブッダの瞑想法――その実践と「気づき(sati)」の意味(3)前編

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2007年に一時出家修行した際の佐藤氏(手前)。僧名:ナーギタ

――第三者に検証してもらうというようなこともないのですか?

基本的に自分で自分の心をチェックすれば、わかることなのではないでしょうか。

初期仏教の場合、自分の煩悩というか、心の汚れということが基準になっています。このインタビューの第一回目でもお話したように、初期仏教の四段階の解脱論で、第一段階の覚りである預流果(よるか)では、①有身見(うしんけん)、②疑(ぎ)、③戒禁取(かいごんじゅ)という煩悩がなくなります。

①有身見が消えるとは、要するに「わたし・我」が存在するという強固な思い込みが消えることです。有身見が無い人には、当然、②疑もありません。「わたし・我」を前提とした世の中にある様々な宗教や思想・哲学と、そういう前提を突き破った仏教とを比較して、天秤にかけようという発想自体が消えているのです。有身見と疑が無い人には、当然、③戒禁取もありません。誰でも最初は、一種の期待や信仰、怯えや思い込みと混ぜこぜで仏道を歩んでいるものです。そういうバイアスが晴れることで、仏道を歩むことになんの心理的な葛藤もなくなるのです。

――なるほど。でも有身見と疑と戒禁取の関係性はまだちょっとピンとこないですね。もう少し詳しく説明してもらえないでしょうか?

前にも触れましたが、仏道を歩むとは、「わたし」を前提に成り立っているはずの世界で、その「わたし」が無いもののように観察モードで生きることです。これは錯覚の世界を強引に壊す営みですから、必ず葛藤が生じます。その葛藤が、仏教の本筋を外れて、なんとか「わたし」を前提とした世界に捻じ曲げようという煩悩の形を取って現れるのです。その煩悩を三つの角度から説明したものが、有身見と疑と戒禁取です。

たとえば、瞑想する人のなかでも、超能力だとか、神秘体験だとかをやたらに求める人たちがいますよね? 彼らのことをよくよく観察してみると、どこかで「無我」を認めたくない、「わたし」というものを肯定したいという葛藤(→疑)がチラつくんですね。無常・苦・無我・因果法則という真理を素直に認めたくないから、何か神秘的に「わたし」を美化したような珍妙な観念を捏造してしまう(→有身見)。彼らは、無我を発見するための仏道修行を、自我の幻覚を美化して強化するものに捻じ曲げてしまう(→戒禁取)。

そういうわけで、ものすごく熱心に瞑想して、瞑想の達人のように見えても、有身見と疑と戒禁取にがっちりしがみついているケースはよく見られます。そういう人々は、そのうち仏教を捨てて新しい宗教を始めてくれるので、放っておけばよいとも言えますが……。この世界がそもそも「わたし」という幻覚を前提にして動いているのですから、そういう修行の落とし穴を完全に塞ぐのも難しいですよね。

とにかく、有身見と疑と戒禁取という三つのチェックポイントを頭に入れて、真摯に自己観察すれば、最低レベルの覚りに相応しいかどうかくらいは、おのずとわかるはずです。それって、第三者に認定してもらう必要はないですよね。

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