涅槃に入られたお釈迦様 画像・AdobeStock
――「わたし」という幻覚を守る三つの煩悩の有無をセルフチェックするのだと。覚った人の心境を理解するためのモノサシみたいなものは他にもあるんでしょうか?
在家向けにお釈迦さまが預流果(第一の解脱)について説明した経典もたくさんあります。煩悩論だと専門的でちょっと難しいので、誰でもわかりやすいキーワードに落とし込んだんですね。そこで語られているのは、仏(ブッダ)・法(ブッダの教え)・僧(法を実践して解脱・涅槃に達した人々)という三宝への信頼(信)が確立していること、それとブッダの示した道徳的生き方(戒)が確立していることです。
仏教でいう信とはいわゆる宗教的な信仰ではなくて、理性的に納得して信頼しているということです。「自分が拠りどころにするのは仏法僧です」と、こころになんの無理も躊躇も強ばりも欺瞞もなく、堂々と言えることですね。
道徳的生き方(戒)が確立しているとは、他の生命を傷つけない、自分の心を汚さないという戒律の「こころ」がしっかり身についているということ。たとえば、目の前に蚊が飛んできた時、われわれは反射的に、バンと叩いて殺してしまったりします。さらに、自分に都合の悪いことは、とっさにごまかそうとしがちです。それで、普通の仏教徒だったら後で後悔して、「やっぱり、まずかったなぁ」などと思うものです。
道徳的生き方が確立している人は、身構えて歯を食いしばって「殺さないぞ」と思うまでもなく、他の生命をまず「殺せない」し、あえて「正直に生きるぞ!」と力まなくても自然体で「嘘をつけない」んです。自分をごまかせないんですね。
心理学的に分析すれば、嘘というのは「わたし」が現実の中でまずい状況に陥った時にその場をごまかして「わたし」を守ろうというこころの働きです。ですから、確固たる「わたし」があると思っている人にとっては、嘘をついてでも「わたし」を守ることが当然、優先されるのです。それが当たり前なんですね。でも、「わたし」とはその都度こころに現れる幻覚に過ぎないと知っている人にとっては、わざわざ嘘をついてまで自分を守ろうというモチベーションがないんですね。
――第一の解脱といっても、なかなかすごい心境ですね。
もちろん、預流果に覚ったといっても、まだまだ修行中で完璧なウルトラマンではないから、様々な判断ミスをしたり、失敗したり、ということはあります。『宝経』という経典には、預流果に覚ったら「それから修行をさぼっても七回しか生まれ変わらない」とか、「六重罪(親殺しやブッダを傷つけることなど)を犯すことはない」と説かれています。
覚ってもダラけたら七回は生まれ変わっちゃうなんて完全な解脱から程遠いですし、六重罪というのはトンデモナイ重罪ですから、「覚ったのにたったそれだけなの?」と拍子抜けしちゃうところもあります。でも、裏返してみれば、われわれは預流果にでも覚らない限り、何をしでかすかわからない二本足の核爆弾のような存在であり続けているのだ、という戒めでしょうね。
もう一つ、預流果に覚った人の特質として『宝経』に説かれている言葉が面白いんですけど、「かれが、身体・言葉・こころでほんの僅かでも罪(十悪)を犯したならば、かれはそれを隠すことができない」というんですね。
ふだんの生活を振り返ってみても、われわれはしょっちゅう失敗や過ちを犯しますよ。それはいいんだけど、仏教的に問題なのは、その過ちや失敗を隠そうとすることですね。自分を善い人間に見せようとする煩悩、カッコつけようとする自意識が、自分自身と正直に直面することを妨げているんです。
禅宗では「悟後の修行」ということが言われます。先ほど述べた有身見と疑と戒禁取を破って、自分に正直に直面できる、理性的な仏教徒(預流者)になって初めて、欲や怒りなど他の煩悩にも挑戦状を出せるのです。自意識の錯覚を見破って、自分を飾らなくなったからこそ、己の汚さにも直面できる。そこから始まるのが、ほんものの修行ともいえるかもしれません。だから、お釈迦さまの仏教では、悟後の修行どころか、「悟後が修行」なのです。
ダラダラとお話してきましたが、覚りに達した人が、「私はもう覚りましたから」などとアピールすることはちょっと想像できません。基本的にそういうことに関して自己主張するという気持ちは起こらないと思います。
さらにもう一つ覚りのチェックポイントをダメ押しで挙げるなら……経典を紐解いてみると、ブッダの指導を受けてなにか精神的な境地を体得した人、お釈迦さまに心服して在家仏教徒になると宣言した人々は、一様にお釈迦さまのことを褒めまくるんですね。こころの解放へと導いてくれた釈尊に感謝しまくるんです。
お釈迦さまが、自分など幻覚に過ぎないと知らしめてくれたんです。そして、それこそが究極の安らぎ・生命が達するべきゴールであることを教えてくれたんです。だから、覚ったというなら、ブッダへの称賛と感謝の気持ちが全身からこみ上げてこないとおかしいわけです。お釈迦さまは目の前にいないから、ダイレクトに「お釈迦さま、ありがとう!」とはならなくても、ブッダの教え(法)やその人に仏教を教えてくれた師匠(僧)へのリスペクトが先に立たないとね。
有身見など三つの煩悩が完全に消えたこと、仏法僧への信頼と道徳的生活の確立、自分の過ちを隠せない素直さ・正直さ、お釈迦さまへの感謝とリスペクト。「おれ、覚ったんじゃないかな?」という気持ちになったら、そんなところをチェックしてみたらいいのではないかと思います。
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