金色に輝くゴータミー精舎の釈迦牟尼仏
――もう一度確認しますけど、自我がないということは、「私」という見方が自分に対してできないわけですか。
確固たる自我なんて元々ないのです。認識過程で無理矢理作っている幻覚なわけですから。幻覚を作って、それが自分だと思っているんですから。幻覚を自分だと思うその条件反射がなくなることで、「そんなに(ありもしない)我を突っ張らなくてもいいんじゃないか」というふうに、自然とこころも変わりますよ。もちろん、日常生活は普通にこなしますし、日常的な会話もするでしょうけど、そこには特別な「わたし」の計らいがない。
――そうすると、自分の状態を言葉にできなくなるのではないですか。
もちろん、覚った聖者でも、日常会話では「わたし」という単語を使います。お釈迦さまだって日常的な会話を成り立たせるレベルでは「わたし」と仰っている。それは現象世界の「お約束」ですから。でも、解脱・涅槃について語るときに、「私が覚った」っていうことはちょっと成り立たないんです。「私が」っていうと、どうしても違和感が出ちゃって、言えないんですよ。私という幻覚が消えているんだから。「どうやって、私が覚るの?」って聞き返したくなっちゃうんです。
余談ですけど、みうらじゅんさんが「自分探し」じゃなくて「自分なくし」をしよう、みたいなことを仰ってましたよね。みうらさんは仏教をすごく勉強されていて、「自分なんか無いほうがいいんだ」とか、「自分をなくすほうが楽しいんだ」とか。あれ、仏教の本質を突いているのです。ある意味で、修行というのは「自分なくし」を実践することなのですから。そのほうが楽なんだなと、しみじみわかることです。
佐藤哲朗(さとう・てつろう)
1972年、東京都生まれ。東洋大二部文学部印度哲学科卒業。ライター・雑誌編集者などを経て2003年から日本テーラワーダ仏教協会事務局長を経て現・編集局長。インターネットを通じた伝道活動、アルボムッレ・スマナサーラ長老の著作編集などを担当。単著は『大アジア思想活劇――仏教が結んだ、もうひとつの近代史』『日本「再仏教化」宣言!』サンガ。共著に『日本宗教史のキーワード』慶應義塾大学出版会などがある。
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