インタビュー

ティク・ナット・ハン「マインドフルネス」が上陸した日

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ワークショップハウス「ゆとり家」を主宰し、ティク・ナット・ハンが創設したプラムヴィレッジ正会員として、マインドフルネスを日本に広める島田啓介氏。1995年にティク・ナット・ハンの来日ツアーの世話人の一人として活躍し、日本のマインドフルネス黎明期でその発展に尽力。現在は精神福祉士やカウンセラーとして、マインドフルネスの手法を生かしたワークショップを展開、指導に当たっている。

このインタビューでは、今まであまり顧られることのなかったティク・ナット・ハン師「気づきの瞑想」日本上陸の経緯や、マインドフルネスとともに歩んだ氏の青春時代、そして現在、「ゆとり家」の活動の様子などを5回にわたって語ってもらう。

 

ティク・ナット・ハン来日ツアーを立ち上げた一人 島田啓介氏

――マインドフルネスがブームと言ってよいほど、今や多くの瞑想会やワークショップが開催されています。島田さんは、この状況をどうご覧になりますか。

とても面白い状況にあると言えます。日本はマインドフルネスの興味深い実験場のような感じで、ポジティブに捉えると、日本は、今、世界でも稀なる「目覚めの最前線」だ、と評価する人もいるくらいなんです。

この文化的ミックスチュアというのは、おそらく何千年もの長い歴史を通して、大陸から朝鮮半島を通って伝来してきた文化が日本に集結したような過去の図式、ちょうどそのようなことが、現代日本仏教の、新潮流にも言えると思うのです。

半島を通ってきた、大乗仏教の流れがあったけれども、テーラワーダ(上座部)仏教は伝わって来ていない。ポツポツとパーリ経典なりが伝わって来てはいたらしいのですが、日本人の肌に合わなかったのでしょうか。テーラワーダ仏教が、現在ヴィパッサナー瞑想でやっているような形で伝わってはこなかったのです。ごく近年になって1990年前後ですかね、上座系の僧侶がやって来ました。じつは僕もその頃ヴィパッサナー瞑想を知ったのです。

――1995年に、ティク・ナット・ハン(Thich Nhat Hanh)師* が来日しました。そのとき島田さんは、オーガナイザー、中心的人物だったと伺っていますが。

*ティク・ナット・ハン(釈一行)

1926年ベトナム中部生まれ。禅僧、詩人、人権活動家、学者。ベトナム臨済禅(竹林派・柳館派)の法嗣であり仏教界で中心的な地位を占めながら、ベトナム戦争中和平をうったえる活動の結果、国を追われフランスに亡命。1967年には、親交の深かったキング牧師からノーベル平和賞に推薦された。

ティク・ナット・ハン師との打ち合わせ風景(島田氏37歳のとき )写真提供:島田啓介、以下同。

はい。チームを結成し、中心になって動きました。周りに20人ぐらいの同じ仲間を抱えるチームでした。核となる4人のひとりで、僕は副委員長を務めました。中野民夫君という、東京工業大学で、今、教鞭を執っている彼が委員長でした。また、通訳者として藤田一照さんも参加してました。

中央に島田氏とティク・ナット・ハン師。その下段、女の子を抱く中野民夫氏、前列には僧衣姿の藤田一照師が見える

1995年は、阪神淡路大震災の年で、またオウム真理教の事件の年でもありました。まさにこの年、ティク・ナット・ハンが来日されたわけです。この年の前後で時代の状況が大きく変化しました。それはまた仏教界でも同じです。テーラワーダ仏教が上陸し、大きく発展する兆しを見せたのもこの頃でしょう。

わたしが、テーラワーダの仏教瞑想を始めたのもこの頃でした。本格的には、ティク・ナット・ハンが来日した後のことです。

私にとってティク・ナット・ハンとの出会いが、事実上仏教瞑想に出会った最初でした。それ以前にも、禅寺で坐禅を組んだこともありましたが、そこでは丁寧なインストラクションもなく、どこか体育会系の感じがして嫌だったのです。警策で叩かれたりして、トラウマが残ってしまいました。おそらくティク・ナット・ハンとの出会いがなかったら、仏教や瞑想への興味も失せてしまっていたかもしれません。

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