ワークショップハウス「ゆとり家」を主宰し、ティク・ナット・ハンが創設したプラムヴィレッジ正会員として、マインドフルネスを日本に広める島田啓介氏。1995年にティク・ナット・ハンの来日ツアーの世話人の一人として活躍し、日本のマインドフルネス黎明期でその発展に尽力。現在は精神福祉士やカウンセラーとして、マインドフルネスの手法を生かしたワークショップを展開、指導に当たっている。
このインタビューでは、今まであまり顧られることのなかったティク・ナット・ハン師「気づきの瞑想」日本上陸の経緯や、マインドフルネスとともに歩んだ氏の青春時代、そして現在、「ゆとり家」の活動の様子などを5回にわたって語ってもらう。今回は、その4回目。
島田さん。「ゆとり家」裏の雑木林にて
——今回のインタビューでは、島田さんの青春時代、木工職人の道を進まれたご経験、また数年をかけてインドや中米を旅された日々の中から、「〈自分〉という重荷を下ろす」ために何を学ばれてきたのか、それを伺っていこうと思います。どうぞよろしくお願いいたします。
はい。前回お話したような環境の中、オルタナティブな回復への道を探ってきたわけですが、自分は木工職人になる道を選択しました。というのは、民藝運動を推進した柳宗悦という人がいるのですが、彼の本に出合って、彼が説く伝統的な職人の道に、精神的な苦しみから解放されるヒントがあるらしいと思ったからです。「森田療法」という身体的なアプローチをとる作業療法の一種についても読みましたが、ひたすら単純な作業をやると頭が空っぽになって「この先どうしよう」という未来への不安を忘れられるらしいということだったのです。
彼の本には、作業療法的な考え方が、禅に絡めて書かれていました。ですから動機としては楽になるために、自己治療のひとつとして職人の道に進もうとしたわけです。 職人の世界はそんな甘くなく、5年でやめることになったのですが、自己治療には非常に役立ちました。とにかく何より身体を動かすという作業がつねにあるわけです。いわゆる心理ワークではない——心理的に「どういう悩みがあるんですか」「それはトラウマですね」「それを解放するワークをやりましょうか」——みたいな迂遠なことはやらないのです。仕事ですから当たり前ですけどね。
「手を動かせ。あそこにあるあれを取って来い」という世界なので、考えていられない。戦場のようなもので、その場ですぐそれをやらなければ、放り出されてしまいます。うつだの何だのと言っていられない。特に下っ端はひたすら一日中カンナがけ。集中して単純作業をやるわけです。一日中穴あけ、一日中ホゾ突き、一日中材料を切って揃えるだとか、それが精神的に非常に良かったのです。「心」というものを忘れることができたからです。禅とか、柳宗悦の民藝運動の本に書かれていたことが、まさにそういう内容でした。確かに楽になると……実体験できたのです。
その後禅や瞑想の本にも興味が向いて、インドにも行きました。特にその当時、70〜80年代の初めにかけて、写真家で旅行作家である藤原新也の『全東洋街道』とか『メメント・モリ』『インド放浪』とか、マイナーな路線ですが熱心に読みました。その後沢木耕太郎の『ミッドナイト・エクスプレス(深夜特急)』が流行りましたが、それより一世代前のぼくらは、藤原新也を読んだ。それより以前には、ぼくの大学受験予備校時代の先生でベ平連の運動などで有名だった作家小田実を読んだのです。小田は、極めて早い60年代にフルブライト留学生で世界中を巡って、バックパッカーのバイブル『なんでも見てやろう』を書きました。それに続いて70年代に藤原新也の諸著作が出始めたので、一連の著作を読んで決めました。「よし、インドへ行こう」と。
こうして青春時代を、木工職人と旅に時間を費やし、模索の日々を続けたわけです。
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