インタビュー

ティク・ナット・ハン「マインドフルネス」が上陸した日 最終回

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——実際に体験してみる、体感するということが大切になってくるのですね。

はい。ワークでは、よく「立つ」体験をしていただきます。立てるということのすごさを確認してもらうためです。人間は、生まれてすぐ立ち上がれるわけではありません。赤ちゃんの時から大変な苦労をして、両親の見守りの中、立ち上がるという動作を身につけていきます。立つという行為が、大人になった今、当たり前にできているけれども、一つ一つ観察してみると、当たり前などではなく、驚異的なメカニズムを備えているんだということに気づいてもらいたいのです。

「飲む瞑想」「食べる瞑想」というものもあります。たとえば飲む行為一つとっても、そのプロセスがどうなっているのか、動作を実際にゆっくり行いながら観察します。そこには一番特徴的な嚥下[えんげ]反射があって、飲み込むまでは自分の意思ですが、そこから先は自分の意思ではどうにもならない、体に自然反射的な機能が備わっているわけです。通常、無意識のうちに体が反応して、飲むという行為が行われますが、うまくいかないとむせて自己防衛をするわけです。自分の意思を介さずに体がこういうことをしてくれている、それを実際に体験していただき、気づいてもらうのです。

「ゆとり家」一階ベランダでの瞑想

坐る瞑想も会場で実践しているものの一つです。一例として、おなかに手を当てて呼吸に伴う腹部の膨らみ・縮みを感じるなどします。放っておいても体が動いている、呼吸している。すごく不思議でしょう。自分でやろうとしてやっているわけではありません。

つまり「[]」はいらないわけです。私〈我〉が介在せずにできていることは何でしょう? と調べてみます。我がいらないところで起こっていることは、非常に精緻なメカニズムでできているので、体にまかせておけば立派に生きてゆけます。思考をはじめとする「我」の行為は上部構造で、我々が悩むというのはいわば贅沢な分野です。悩めるというのはすごく贅沢なことなのです。下部構造は生命の基盤がやってくれている、たとえれば、体の中にいる職人が同じことをずっとやってくれて、はじめて成立することなのです。まじめなポンプ職人が体の中にいてずっと心臓を動かし続けています。そうした体の60兆個の細胞の働きのおかげで、私たちは贅沢にも大脳を発達させて悩めるわけです。

その一番贅沢な部分を、あなたは何に使いたいですか? というのが私からの問いかけです。そもそも生命活動には必要のない余分なことをやっているともいえるでしょう。思考というものは、(たぶん)思考せずとも立派に生きている動物を見るにつけ、新しい、新皮質の脳で、人間が勝手にやっている贅沢です。でもその贅沢があるから人間なのです。その贅沢部分をあなたは悩みに使いますか、それともハッピーなことに使いますか、ということです。

どうせ贅沢をするのだったら、ハッピーなことに使ったほうがお得なのではないでしょうか。

朝起きた時われわれは、すぐに思考が立ち上がるように見えますが、実際には自分が何者なのかを知りません。昼寝して目が覚めたとき、今何時かわからないことがある。そういう通常の認知をし出すときに、われわれは自己編集を急いでしています——私は誰々で、今何時で、何をしなければならなかったんだっけ? ということをほとんど瞬時に編集するわけです。

その編集前の自分は生命のベーシックな自分です。「私」というのは別にいらない——私はいらないのです。でもそこから立ち上げてくる上部構造は、人間としての贅沢な部分なので、何を立ち上げるかは、あなた次第で選択できますよ、ということをお伝えしたいのです。

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