インタビュー

レポート「英語で語り直す仏教」

藤田一照・田口ランディ
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藤田 僕は禅をやろうと思ってお坊さんになったんですよ。別にアメリカに行くためにとかではないんですけど、師匠が僕を見た途端に「こいつはアメリカ向きだ」と思ったらしくて、いずれアメリカに送り込んでやるみたいに思っていたらしいですよ。

日本では、何も喋らず黙々と作務したりしていました。アメリカに行って、堂頭(どうちょう)さんっていう修行道場のリーダーになった訳ですよ。アメリカの人たちは、「語れないってことは、知らないこと」だっていうカルチャーなんですね。

日本だと老子に書いてあるように「喋るヤツは知らないやつだ。知っているヤツは喋らない(知者不言、言者不知)」って感じなんだけど。あっちは逆なんですよ。責任も面子もあるから、聞かれたら言わないといけない。しかもそれが英語で、それをやんなきゃならない。

そんなの生まれて初めての状況ですよ。それまで、僕は英語を実地で使ったことがないんですよ。初めて英語を使ったのは1987年にマサチューセッツ州の禅堂に行く前のミネアポリス禅センターですね。長年アメリカで禅を指導している日本人の老師がおられた。僕の師匠が、そこに行ってコツを聞いてこいって!

田口 コツ?

藤田 どうやってサバイブしてきたのかと苦労話を聞いて覚悟を決めろと言われた。

その禅センターに5日ほどいました。最初に着いた時にブランチを頂いたんですね。サラダとサンドイッチを老師と禅センターの人と一緒に食べたんですよ。僕は塩っ辛いのが好きなので、「塩がないか? 醤油が一番いいんだけどな」と思ったけど無い。見たら遠くの方にsalt potがあったので、“Please pass me the salt.”って言ったんですよ。まぁ、発音は悪かったと思いますよ。

そしたら、パスする形で何人かが手渡しながら、僕の所にsalt potが来たんですよ。英語だとこれ、“It worked.”って言うんですよ。「うまくいった」みたいなニュアンスです。

“Please” “Pass” “Me” “The” “Salt” 英語にすると五つくらいの単語をプア・イングリッシュの発音で言ったら、世界が変わるわけです。あそこにあったsalt potが、何秒後かに此処に来るというすごい体験だったんです。「わあっ、僕の英語ちゃんと働くじゃん」っていう。

これからずっとこういう感じで、こうした人達とやり取りしていくんだなっていう感じがまずあって、それからマサチューセッツに行ったわけですよ。“Please pass me the salt.”ぐらいならいいですけど、仏教の話ですよね。特に禅なんていうのは“beyond words”ですからね。

語れないことについて喋らないといけなくなった。しかも母国語じゃないわけですよ。なので、これは行ってから思ったんですけど、まず、英語の仏教書でどういうふうに仏教が語られているかを知らないといけない。僕は漢文の仏教を学んできた訳です。中国経由の……。

田口 中国味の仏教。

藤田 サンスクリット語から大乗経典が中国語に訳された訳ですよ。みなさん、ご存知の玄奘三蔵とか鳩摩羅什というような人は翻訳チームのリーダーです。翻訳は国家事業で、チームを組んで翻訳するんです。

田口 だから私たちが接している仏教は、ほとんど中国味なんです。中華味なんです。

藤田 漢訳仏教というか、漢語の仏教だったんですよ。ところが、英語じゃ漢字も使えない。僕が漢文の仏教で学んだコンセプトなり、考えなり、哲学なりを、こんどは英語という、漢字で縦に書かれているものを英語の横にしないといけないわけですよね。

もう必死に勉強しました。いろんな仏教について書かれている本を読みました。『Introduction to Buddhism』とか、いまほどたくさんではないけど、定評のあるものがあった。D. T. Suzuki(鈴木大拙)の本なんかもあった。

田口 英語で書かれた仏教本を参考にして?

藤田 はい、英語を読んでそれを日本語や漢文のことばに頭の中で翻訳して理解していました。

田口 最初はそうしていた。

藤田 そうしないと理解できないですよ。この英語は漢文のあのことばを意味しているなって感じで。僕の中で参照できるのは漢文の仏教しかないから。

読んでいる英語の仏教についての文章を、頭の中で日本語に訳しながら理解し、日本語の中には漢文の仏教語がいっぱい入ってるので、中華風の日本語で理解しないと意味がわからないっていうのは最初の段階ですよね。

田口 次のステップがあった訳ですね。

藤田 次のステップは英語そのものでわかるっていう。いちいち直している感じがなくなる。

田口 もう、英語脳になっていくという感じですか?

藤田 そうそうそう。いまも僕は日本語の文章を喋っているけど、別に頭の中で発表原稿をいちいち作っている感じがしない。勝手に出てくるじゃないですか? そういう段階が英語でもあるわけですよ。住み始めて5〜6年ぐらいすると。

田口 頭の中に、英語脳が、英語のお部屋が出来たって感じですか?

藤田 お部屋じゃないんじゃないかな。

田口 モードが変わった。

藤田 魚の群れの形がパッとかわるじゃないですか? ああいう感じの方がピッタリかな。日本語と英語の chamber(部屋)が脳の中に二つ有るとは思わないですね。そういう感覚ではなく、脳全体がフーっと日本語モードが英語モードに変わる感じ。

田口 じゃあ、英語モードチェンジになったときに、仏教理解も英語モードチェンジに変わったわけですか?

藤田 うーん。日本語で学んだ仏教と、英語で学んだ仏教が二つあるというよりは、一つの仏教を英語と日本語で表すっていう感じですね。

最初は、プロセスは二つあったような感じだったんですけど、その内、僕は一人の人間なので、そんな二つの別なものを頭に置いといて入れ替えるっていうのは多分、脳がしんどいので一つにしたんだと思います。

今は、一つの仏教理解を英語で言ったり、日本語で言ったりしているっていう感じですね。

田口 じゃあ。本質的な仏教理解には変容があったんですか?

藤田 変容というより、はっきりしたと思います。変わったというよりは、もっとボワーっとして見えたのが、はっきりして、いろんな風に見られるようになった感じがする。

田口 もうちょっと、突っ込んで聞いてみていいですか? 私が今ずっと聞いていて思ったのは、まず英語の文法を面白いと思い、英語の構造を最初にガッツリ把握して勉強し始める。あとは仏教の本質は初めぼんやりしているけれども、英語ではっきりと理解していってるっていう事を考えるとね。一照さんは、すごい直感タイプの人だなって思います。本質看取(ほんしつかんしゅ)っていうんですかね。

藤田 昔は時間的余裕がたっぷりあったからね。

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