インタビュー

藤田一照 プラユキ・ナラテボー対談:「大乗と小乗を乗り越え結び合う道」 その2

藤田一照・プラユキ・ナラテボー
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プラユキ 私は以前、「無我」というのは「繋がっている」ということ、言うなればティク・ナット・ハン師が言う「インタービーイング(相互存在)」ということだと理解していました。ところがタイへ渡りテーラワーダで修行をし始めると、そこでは「繋がり」は強調されず、「無我」は「我という実体は無い」というあるがままの事実として教えられました。それを瞑想を通して確認していくことで、「私」への囚われから自由になって苦しみを解消していく、とそんな文脈ですね。「繋がり」とか「一体」というようなことは、ほとんど耳にしてきていません。

それで私はと言えば、テーラワーダ的な無我の観点は実際に瞑想してすごくしっくりきていると同時に、一照さんのおっしゃる「繋がりの世界を生きる=仏」という大乗仏教のビジョンについても、それはそれですごく納得しています。ただ、「分離のパラダイム」を「凡夫のビジョン」や「小乗メンタリティ」と言ってしまうと、実際ほとんどの人が「繋がりパラダイム」ではなく「分離パラダイム」で世界を認知しているわけですから、「小乗メンタリティ」だということになってしまって、ちょっと大乗のハードルが高すぎるのではないか、という感じがしています。

それよりは、認知はどうあれ、他者には無関心で、ただ自分の悟りやら成長やらに関心を持って取り組んでいる段階を「小乗メンタリティ」、そこから他者に対しても関心が向かい、抜苦与楽を促進する慈悲的な行動をしたり、菩薩行を実際にやって人を助けたり、協力したり手伝ったりといった行動を「大乗メンタリティ」と呼んでいいんじゃないかと思いますね。

一照 僕らは皆、最初は個人的な悩みしか持てないようになっている。悩みの根源は分離した個人という錯覚に由来しているからです。ですから、実際にはいきなり大乗のビジョンというのは普通は持てないからこそ、認知の枠組みを更新するようなトレーニングをしなければならないのです。此岸から彼岸へというモデルが仏教にはあります。閉じて苦しんでいる娑婆のこっちの岸から向こう側の涅槃の岸まで渡っていくわけですよね。

プラユキ 八正道ですね。

一照 はい、八正道の正見と正思。「あっち(彼岸)があるな」と知ることが正見で、「大変だけど必ずそこに行こう」と決断することが正思だと僕は考えています。

最初はどうしても僕らは此岸にいて、そこからの出発です。どうしても「分離した自我」にリアリティを感じてしまうものです。ですが正見と正思で、それを乗り越えて行こうとアクションを起こす。しかしまだ小乗的な領域にいるわけですよ、実際には。でも小乗から大乗へという一つの方向性を示すラベルとしては「分離から繋がりへ」ということが始まっているのです。

で、たぶんプラユキさんが言ったみたいに、利他行というのは、そのプロセスの中に、彼岸に行くための糧とでも言うのかな、変容へとつながる何かを培うためにやるわけです。最初は強いてやるという側面がありますが、だんだん彼岸に行くにしたがって自ずとできるようになってくる。

さっきもそういうお話をされていましたよね。縁になろうとするのではなくて……。

プラユキ はい。私がよくお話しているのは、まずは起こってくる現象のすべてを、智慧をもって良き縁と〝為す〟。すなわち、どんな現象に遭遇しても、それを悩み苦しみの種にしてしまわず、糧として生かしていける力を培っていく。つぎに、自らが良き縁となって、衆生の抜苦与楽に貢献していく慈悲行ができるようになっていこう、ということです。

一照 そこにも小乗的な、分離的な方向性からオープンな「彼岸」への方向性がありますよね。修行の道程には、小乗的・大乗的と呼べるような「極」があって、あきらかに小乗的な在り方から出発するけれど、それは最終的には大乗的な方向に向かっていく。どこを見ても閉じている状態から、開いている状態へ向かっていくわけです。

同形で大きなものから小さなものまで大小の順に中に入れるように作った、いわゆる「入れ子、入籠」みたいに、どこをとっても方向としては彼岸を向いている。一見小乗的だけど、よく見ると小乗から大乗に向かう小さなプロセスがそこには微妙に存在する。完成形にはかなり遠くても、そちらの方向に向かっている限りは、「大乗的である」と言ってもいいと僕は思うのです。

プラユキ なるほど。方向性にズレがなく、「彼岸」という正しい方向に進んでいれば「大乗的である」と言ってもいいということですね。

一照 例えるなら、東京から京都に向かったら、そこに京都は既に来ている。正しい方向へ向かって一歩一歩、歩いているわけですけれど、それは京都に近づいているというよりは、すでに京都のなかで一歩一歩深まっていっている。で、ほとんど京都まで来ていても、何かの拍子に間違えて、東京の方へ向いてしまったら、それはもう、東京の延長の中にいるという、そういうことです。

プラユキ 方向性ですね。

一照 そう。方向性がすごく大事。ビジョンというか。

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