インタビュー

藤田一照 プラユキ・ナラテボー対談:「大乗と小乗を乗り越え結び合う道」 その2

藤田一照・プラユキ・ナラテボー
  • このエントリーをはてなブックマークに追加
  • LINEで送る

――プラユキさんは「オープン」という言葉をよく使われますけれども、それも一つのビジョンと考えてよろしいですか。

プラユキ いや、私が「オープンハート」というときには、方向性やビジョンというよりは、今ここで生じてくる現象に対する態度について言っています。何の前提も設けない、先入観を持たない。すなわち心を構えないオープンハートな状態でいると、機能的に苦しまないようになりますよ、という意味でお勧めしているのです。

逆に、心がオープンでない状態とは、「雑念を起こしてはいけない」「無にならなければいけない」などと前提を設けてしまうことです。こうした姿勢が心身に緊張をもたらし、また、浮かんでくる思考やイメージを「敵」とみなすことになりますので、それらに襲われるのではないかとの不安も生じてきます。

また、苦とは、思うようにならないことで生じてくるわけですから、「こうあるべき」という前提を設ければ、そうではない現象や出来事が生じてくるやいなや必然的に苦しみを受けるはめになるわけです。

そんな意味で、心をオープンにして、生じてくるあらゆる現象や出来事に対して信頼していければ、無駄に苦しまないで済むという道理です。

ビジョンっていうと、何かを思い描いてしまう感じで、今ここというよりは、目的、方向性が必要になってしまう感じがするんですよね。そうではなくて、今ここでの態度として「オープン」という言葉を使っています。

一照 なるほど、それは態度についての言葉ということですね。

プラユキ はい。心に関しての問題の多くは、不要な〝構え〟に端を発しています。雑念や妄想は、悪いもの、汚いものという前提から無駄な緊張が心身に生じ、リラックスできなくなるのです。

心をオープンにしておけないと、世界を敵に回してしまう。そして求めていたものが得られないと落胆する。そこからさらに、怒りに駆られたり、抑圧的な反応をすることになってしまう。

それに対して〝構え〟を設けずに「何が起こってもオッケー」というオープンハートな態度でいると、無駄な緊張が生じず、心身ともにリラックスしていられます。

さらに、世界を信頼しているので、無駄に敵が生まれない。求めるものがないので求めるものが得られなくて落胆することがなくなり、何が生じてもあるがままに受容的に対応することができます。

私としてはこのような態度を「オープンハート」と称して、それこそが五力にもある「信(サッダー)」、すなわち信頼力を醸成するものとみなしています。

もちろん「信」には「信仰」という意味合いもあって、実際それは大切ではあるんだけど、今日では「信仰」と言うと、特定の教祖様やイデオロギーに対しての信奉やこだわりみたいな意味に受け取られている節があるので、なるべく私としては「信仰」という言葉は使わない方針です。

それで何を「信頼」するかと言えば二つあって、一つは自分の中に生じてくる心身現象、あるいは様々な要因で生じてくる外部の出来事への信頼。すなわち、どんな現象が生じてこようと、こちらが適切に対応さえしていけば、すべてが人生の学びや糧となっていくという信頼。もう一つは私たちの意識の成長可能性についての信頼。どんな人であれ、正しく取り組めばブッダになれるといった菩提の可能性への信頼と言えましょう。これら二つを「信頼」することです。

一照 今言った〝構え〟や〝態度〟に対して、「小乗的」とか「大乗的」とかいう言葉を使えばいいんじゃないのかな、と思いますけどね。

プラユキ なるほど、それはいいかもですね。例えば、「慈悲の瞑想をする」にしても、それが単に「自分の心の安らぎのため」という閉塞的な態度で行うのか、あるいは「信」を基盤としたオープンハートな態度で、一切衆生の抜苦与楽を願い、やがて具体的な行動にもつなげていく起点として祈るのか、そうした態度の違いを、「小乗的」「大乗的」という言葉を充てて表現してみるのもいいかもしれませんね。

一照 僕は少なくとも、小乗・大乗というのを、かなり自分的に使っているんですね。もともとは特定の伝統を指すために使われていたんだけれども、僕はそういう風には使いたくないので、使うとしたら「僕の中の小乗的なメンタリティ、態度」みたいな使い方を、操り返しますが、しています。

要するに、小さく閉じて、固くなっていく。条件をつけて閉じて固くなっていく傾向を反省する意味で「小乗的」という。それを逆方向に想定した、目指すべき方向性を「大乗的」というふうに僕は使っています。でも、もうそういう手垢のついた問題のある表現は使わないで、プラユキさんのように、「オープンハート」と言った方がいいのかもしれませんね。

プラユキ たしかに言葉というものは、こちらがどう定義づけようとも、その説明がなければ、聞く人は聞く人なりの先入観で聞き取ることになりますので、そんな意味で「小乗」という言葉は、いらぬ誤解を生みやすい言葉であることはたしかかと思います。

私の場合はそういうリスクをなるべく冒したくないので、一般の人たち対象のレクチャーで、「小乗・大乗」というタームを用いた対比はしたことがありません。でも、私と一照さんのように、こうしてお互いにわかりあって用いれば、仏教の本質を議論をする上での格好のテクニカルタームとしても活用できるんだな、とあらためて確認できた次第です。

――本日は、小乗と大乗という言葉のもつ影響力について教えていただきました。一照さんには、仏教に向き合う時のメンタリティとしてのその語の使い方。プラユキさんには、他者に向き合うためのプロセスとしての、小乗という言葉の価値について学びました。貴重なご提言を誠にありがとうございました。

 

藤田一照
1954年、愛媛県生まれ。webサイト寺院「磨塼寺」住職。東京大学大学院(発達心理学専攻)を中途退学し、兵庫県新温泉町、安泰寺にて得度(29歳)。33歳で単身渡米し、マサチューセッツ州ヴァレー禅堂に住持。2005年に帰国、坐禅指導にあたる。著書に『現代坐禅講義—只管打坐への道』(佼成出版社)。プラユキ・ナラテボー師との共著に『仏教サイコロジー—魂を癒すセラピューティックなアプローチ』(サンガ)がある。
プラユキ・ナラテボー
1962年、埼玉県生まれ。タイ・スカトー寺副住職。上智大学哲学科卒業。大学在学中よりボランティアやNGO活動に専念。タイのチュラロンコン大学大学院に留学し、農村開発におけるタイ僧侶の役割を研究。1988年、ルアンポー・カムキアン師のもとにて出家。著書に『「気づきの瞑想」を生きる—タイで出家した日本人僧の物語 』。監訳書に『「気づきの瞑想」で得た苦しまない生き方』(共に佼成出版社)がある。
  • このエントリーをはてなブックマークに追加
  • LINEで送る