インタビュー

藤田一照 プラユキ・ナラテボー対談:「大乗と小乗を乗り越え結び合う道」 その3

藤田一照・プラユキ・ナラテボー
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——ありがとうございます。ぜひ、勉強させていただこうと思います。ところで、大乗仏教の基本思想としてもう一つ、「仏性」があります。一照さんが主宰されるオンライン寺院「磨塼寺」配信のご法話に、たいへん興味深い読者とのQ&Aを発見しました。ここに引用させていただきます。

(読者からの)Q:
とあるお寺を訪ねた時、帰り際に住職の方が、雨の中、傘もささず山門の外まで見送ってくださいました。こちらに向かって深々と合掌低頭される姿に困惑したのですが、私にではなく私の中にある(万物にあるという)仏性に手を合わせてくれているように感じました。この仏性という名前がついているものは一体なんなのでしょうか?

(一照師からの)A:
仏教で仏性と呼ばれているのは、私たちの中の何処かにあるコロッとした仏の種編集部注:大乗経典「法華経」では、仏性を「仏種」と表現)のようなものだと考えてはいけないと道元は言っています。

僕も、それは実体論的な考え方で、縁起に基づく仏教の考え方と合致していないと思います。仏性というのは、あらゆる存在物を存在させているその存在性そのもののことを言っているのだと僕は理解しています。仏性は、存在物(者)の備えるなんらかの属性のことではなく、存在していることそのもの。だから、万物は仏性なのです。道元は「一切衆生 悉有仏性」を「一切の衆生は悉く仏性を有す」とは読まずに「一切は衆生なり。悉有は仏性なり」と読み下します。

その和尚さんは、あなたがあなたとしてかけがえのない唯一の存在として、今そこに現に存在していることに手を合わせたのではないでしょうか。〜後略〜

——道元禅師は「一切衆生 悉有仏性」を「一切の衆生は悉く仏性を有す」とは読まない。「一切は衆生なり。悉有は仏性なり」と読み下すのですね。編集部でも複数の辞書を引っ張ってみましたが、道元禅師のような解釈は出てきませんでした。仏性とは、我々が備えている「種」としての属性だ、という仏教理解が一般的ですが、もう少し詳しく教えていただけませんか。

一照 多くの場合は、衆生が「種」のように「仏になる可能性」をその内に有している、そういうイメージで読まれてきた、あるいは現在でも読まれているわけです。

つまり「有す」を英語の“have”と解している。すると何が起こるか——。
「持つ私」と「持たれた仏性」に分かれてしまうのです。これは、仏教が嫌う対象論理的分別です。それは本来的な仏教の考え方ではない。道元さんもそういう観点から、ああいう独特の読み方をしているのです。彼の仏性に対する立場は『正法眼蔵』仏性の巻によく現れています。

“I have a pen”のような、所有の形で「仏性、仏種(法華経)」を考えてはいけない。道元さんは、存在していることそのものが「仏性」なんだと言いたいのです。

主著である『正法眼蔵』は「現成公案(げんじょうこうあん)」という題の巻がその冒頭に配されています。これは道元さんご自身の編集方針によるものですが、その題は「今ここに現に在るものが真実である」という意味合いです。その立場で『正法眼蔵』は一貫していますから、仏性もそのライン上で理解されているのです。

——『正法眼蔵』「現成公案」の巻。「在るものが真実である」というそのタイトルの意味合いを、どのように受け止めたらよいでしょうか。

一照 「現成」とは、今ここに、現にこうあること。「公案」は、動かせない真実という意味です。要するに、「法華経」にある「諸法実相」(「諸法は実相なり」)です。

「諸法」は諸々(もろもろ)の存在という意味ですからね。「諸々」は仏教の場合、とりわけ大乗仏教では「全部」という意味。つまり、全部は「真実相」である、真実そのものの姿が露堂々(ろどうどう)、つつみ隠さず現れている、ということです。「法華経」で一番大事な言葉ですよね。突き詰めれば「本来成仏」と同じことですよ。ですから、成仏というのも、いつか仏に成るという未来の話ではなくて、すでに仏として成就しているという現在完了形の話として理解してください。

道元さんはそれを洞察した。それこそが「ブッダのメッセージ」だと確信したのです。
「有」を英語の“have”と読むのが、伝統なのかもしれません。しかし、一切衆生は「仏性」という種子のようなものを持っている、と読んだら、もうそこで仏教的なロジックではないという違和感が生じる。縁起の立場からはどうしてもそうは読めないので「一切は衆生なり、悉有は仏性なり」というふうに読むしかない訳です。

——繰り返しますが、「仏の種」が我々衆生のうちにある訳ではない、と。

一照 そうです。仏の「種」などない。「悉有(悉く有るもの、つまり存在の全部)に触れたら、それは仏性に触れている」ことなんだ、そう捉えてみてください。「性」を、なにか隠れているもののように思うかも知れませんが、隠れているものなどなく、事実は〈顕れて〉いるものなのだ、と。

——道元さんがここで言う「仏性」。これを他の言葉で言い換えられますか?

一照 まあ、「真実の姿」でしょうかね。だから「諸法実相」。「悉有は実相なり」でもいいですよ。「真実相」ですからね。

どこにも隠れているものなど無い訳です。「露堂々(ろどうどう)」と禅語で表現されるのですが、すべては何も隠さないで、まるまる顕われている。全部、真っ裸に顕われているというのです。

また「遍界(へんかい)」。普遍の「遍」ですね。「尽」と同じです。「遍界」「尽界(じんかい)」という言葉を道元さんは好んで使います。つまりは世界全部。極めて「大乗」的な表現です。全部ということは〈例外無し〉ということです。そこから漏れるものがない。〈私〉もそこにはもちろん含まれますし、煩悩と呼んでいるものも当然ながら含まれます。まるごと全部、ですから。悉有は仏性なり——煩悩すら光輝いているっていうことになるんです。

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