——きょうは最終回となります。「悟り」という仏教の究極とも言えるこのタームを、お二人がどのように位置づけているかを、もう一度お話いただけますか。
プラユキ 他のテーラワーダ諸国でどんな教えが説かれているか知りませんが、少なくとも、私が学んだタイでは、僧侶であろうと在家であろうと、ブッダの示した道を歩み、煩悩や執着、無明をなくせば、誰でも苦しみを滅し尽くすことができる。それすなわち涅槃(究極の悟り)である、ということです。
涅槃への道を促進するにあたり、瞑想は非常に強力なツールとなります。しかし部屋に籠もって瞑想三昧ではなく、ちゃんと日常の現場にも出て、瞑想で培った気づきや定力、慧力を生かし、ライブで自他の抜苦与楽を実現することに努める。こうした往還によってこそ、涅槃へ着実に近づくと言えるかと思います。
一照 大乗禅でよく譬えに出すのは、「十牛図」(*2)にある九、十の段階、「返本還源」(へんぽんかんげん)「入鄽垂手」(にってんすいしゅ)の教えがあります。第八図の「人牛倶忘」(にんぎゅうぐぼう)では人も牛も消えて、空っぽの絵なんですけど、それはまだ終わりじゃないというところがミソなんです。色即是空という悟りを得てもそこで止まってはならない。空即是色と再び世俗に戻り、人々に安らぎを与え悟りへ導く利他行へと展開する必要がある、と説くわけです。現世の否定ではなく、現世の聖化を強調します。
*2 十牛図(じゅうぎゅうず)は、悟りにいたる十の段階を十枚の図と詩で表す。「真の自己」が牛の姿で表されているため十牛図といい、真の自己を求める自分は、牧人の姿で表されている。作者は、中国北宋時代の臨済宗楊岐派の禅僧・廓庵(かくあん)。
ブッダの生き方を見れば、山に籠って悟り澄ましていないで里に下りてきています。道元禅師も悟って以来一人になったことはない。常に人々と共にいる。けっして世捨て人ではありませんでした。
プラユキ わたしは、「遊戯三昧」(ゆげざんまい)をそのような究極な境地と解釈しています。すなわち、いつでもどこでも、自分が楽しいと思って自由にやること為すことが、そっくりそのまま利他に、一切衆生の救いにもなってしまうという感じですね。
一照 (一照師、机を叩いて見せながら)僕らは「ここ」を愉快に生きるために生まれてきているのです。そう言うと、「仏教ってそんな明るい宗教なんですか」って言われるんですよ。でも、ティク・ナット・ハンさんなんかは、“Issho, Smile! Practice should be enjoyable”(一照さん、笑顔だよ! 修行は楽しいものでなくてはいけません)と言っていましたからね。