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寿地蔵ードヤの人びとが願い、守ったお地蔵さまー(その3)

取材/文=千羽ひとみ(フリーランスライター)
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『千秋の丘』で安らかに

横浜市青葉区の徳恩寺には、中区の寿町から足を運べば小一時間はかかる。それでも移転後、誰かしらが足を運んでは、寿地蔵の前にぬかずいて、今は亡き寿の仲間達を偲ぶ姿が見られる。

寺と寿町との縁も、強まるばかりだ。
毎年8月15日には、徳恩寺のトラックにジャガイモやニンジン、タマネギといった食材を積んで寿に赴き、千人分のカレーライスの炊き出しをするのが通例。もう40年以上続けている。
「炊き出しというか、お盆の施食会(せじきえ)ですよね」

8月のお盆といえば、お寺が1年でもっとも忙しい時であろう。そんな時期の、寿町での施食会の実施には、徳恩寺の檀家さんたちの協力が欠かせないものであるという。
「お盆の時は、檀家さん宅へお参りに行きますが、1軒3分。カップラーメン並みの滞在時間です。
檀家さんの家には、基本、上がらない。農家さんが多いから、精霊棚といって、庭先から見えるようにしてくれているんですが、原チャリ乗って檀家さんに行き、〝こんちは〟というと、みんなその瞬間に精霊棚のろうそくに火を付け始めます。私を寿に行かせるために、そうやって時間を節約してくれているんです。
手前味噌かもしれませんが、うちの檀家さんは日本一だと思います。
私が寿のためにやることは、みんな受け入れてくれるんですから」

徳恩寺の寿町への貢献は、さらに続く。
寺の裏手にある霊園の最上部まで足を運ぶと、黒御影石製の墓がある。高さ2.3メートルの立派なこの墓もまた、寿のためのものだ。身寄りもなく、無縁仏となった住民達の、終の棲家なのである。

身寄りのない人たちを供養するために建てられた「千秋の丘」(徳恩寺)

実はこのお墓の創建には、影の功労者がいるという。
「川瀬誠二さんへの慰謝料をもとに建造したのが、この『千秋の丘』なのです」
話は今から35年前の、昭和59(1984)年8月にさかのぼる。
寿日雇労働者組合副委員長だった川瀬さんが、仕事の最中、ローラーにひかれて命を落としてしまったのだ。妻と、幼子を残しての無念の死であったと融完師はいう。事故の原因を巡ってのちに裁判となるが、その和解金を使っての建造であった。
「川瀬さんのご両親が〝寿のために使って欲しい〟と。そして寿の住民有志、石材店、当寺などがお金を出し合い、開眼供養したものなのです」
時に、平成2年(1990年)のことであったという。

「千秋の丘」には、寿の人たちのみならず、東京の山谷で無縁仏となった人びとのお骨も治められている。取材のこの日も、いつ、誰が手向けたのか、枯れてはいるものの色の名残を残した花束が、初夏の風の中で揺れていた。

寿地蔵、そして千秋の丘に思いを馳せて融完師が言う。
「寿町の存在って、横浜の歴史に欠かせない部分なんです。
横浜の港湾の仕事を担っていたのは、あの町の人たち。寿町の人たちがいなかったら、港町横浜は成り立たなかった。寿町を知り、考えることは、横浜市民の義務だとさえ思うんです」

人生の荒波に揉まれ、心ならずも無縁仏となってしまった人たち。
塩辛い水を飲み続けた命の航海は、緑溢れるこの霊園に帰航、今、永久の安らぎの中で眠っている。
お地蔵さまのかいなに抱かれつつ、彼方に寿の町をのぞみながら──。

(終わり)

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