こんなに愛されたお地蔵さんがあるだろうか――。
横浜市中区にある寿町。日雇い労働者が暮らし、〝ドヤ街〟と呼ばれるこの町に、
住民からとても大切にされたお地蔵さんがあった。
名前は、寿地蔵(ことぶきじぞう)。
やさしいお顔をしたそのお地蔵さんは、
ドヤの住人と、あるお寺との交流から生まれたという。
徳恩寺住職の鹿野融完師にお話を聞いた。
ドヤの住人たちから浄財を集め、お地蔵さんを建立しよう――
そう請願した師父・鹿野融照前住職と共に、5歳から寿町で托鉢をしたという融完師
ワンカップの空き瓶の洗礼を受けて
寿地蔵建立のための托鉢は、毎週、寿町の中心にある、職安前から出発したという。
「車の中で袈裟に着替えさせられて、町をぐるっと一周して、それから横道に入っていく。自治体の人たちも含め、5~6人ぐらいの集団でした」(融完師)
先頭を行く自治会長の胸元には、いつも警笛がぶら下がっていた。
寿町には酔っ払いもいれば、路上で寝ている人もいた。白昼堂々、路上で行われているノミ行為で負け、かけなしの金を失ったばかりの男達の前を歩くこともある。酔っ払いや博打に負けて苛立った男達が近寄ってくると、自治会長がすかさず笛を吹き、警告するのだ。
「毎週かならずラムネやあめ玉をくれるおばちゃんがいたり。石が飛んでくることはなかったけれど、ワンカップの空き瓶を投げられたことはありましたね。
寿の住民のためにやってくれているのに、空き瓶を投げつけるなんてひどいって?
そういう考え方こそ、実は押しつけ。寿の人たちのためっていうけど、そんなこと求めていない人もいるわけです。こっちは『行』として勝手にやっているわけだから、〝協力しなければいけない〟というほうが、本当はおかしい。
われわれが行をしているその横にはいろいろな意見や現実があって、酔っ払って憂さ晴らしをしている人もいれば、競馬で負けてむしゃくしゃしている人もいる。反対に、競馬で勝って献金してくれる人もいるわけです。ですから師父たちは、まずは寿町の多様性を受け入れることから始めなければならなかったんです」
融完師が当時5歳の身でここまで成熟していたわけではない。
「激しい肉体労働に従事しながら風呂にも入らなければ手も洗わず、爪が真っ黒になった人に〝俺たちのためにありがとうな!〟と抱き寄せられて頭をなで回されることもあった。気持ちはありがたったけど、臭くて不潔で、当時は嫌でたまらなかった」
5歳といえば、遊び盛りだ。なのに自分は、窮屈な袈裟を着せられ、時にはワンカップを投げつけられながら托鉢に回らなければならない。
「ホント、嫌でしたよ……。唯一楽しみだったのが、托鉢のあと、伊勢佐木町に連れて行ってもらい、マクドナルドでハンバーガーのセットを食べさせてもらうことだけ。それがなかったら、正直、行っていなかったと思う」
そう語る融完師の頬を涙が伝う。当時の自分を哀れんでの涙ではない。
ワンカップを投げつけた男性も、最後の最後には托鉢の目的を理解して献金をしてくれた。嫌な時は気持ちのままに嫌であると表現し、理解出来れば素直に受け入れ、ひとたび受け入れられば決して裏切られることがない。生き残りのため仮面をつけ、裏では修羅のようになっている社会では、得がたい素朴さと裏表のなさ。
この町の他では見られない純粋さと人情が、融完師の胸を今も打つのだ。
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