日本仏教を形づくった僧侶たち

「日蓮」―迫害の中で『法華経』信仰を深めた不屈な行者―

作家 武田鏡村
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『法華経』を真の経典とした日蓮
『法華経』が日本を救うと考えた日蓮
他宗を徹底的に批判して、命を狙われ続けた日蓮
迫害と流罪にも屈せずに信仰を貫いた日蓮とは、
一体どんな人物だったのでしょうか──

日蓮

            ©悟東あすか

法華経に帰依し辻説法

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鯛の浦。日蓮が誕生した際、鯛が飛び跳ねたといわれる(写真提供・公益社団法人 千葉県観光物産協会)

日蓮は鎌倉中期の貞応(じょうおう)元年(1222)、安房(千葉県)に生まれています。
12歳で安房小湊の清澄寺で修行し、長じると鎌倉・比叡山・奈良・高野山などで修行を重ねて、釈尊が奉じた『法華経』こそが真の経典であると確信するようになったのです。

日蓮の生涯は、迫害と抵抗の歴史でした。柳は風を受けるたびに強くなるといわれていますが、日蓮は迫害を受けるたびに、『法華経』の精神を体現する行者として信仰の正しさを確信し、ますます強靭になり、勇敢に法難に立向かっていったのです。

第一の法難は、恩師と壇越(だんのつ)(信徒)から放たれます。
32歳で小湊の清澄寺に帰った日蓮は、師の道善や法兄たちを前にして、
「念仏や禅は、人をたぶらかす邪教である。法華経に帰依することこそが、往生得道のただ一つの真理である。この日蓮は、ただいまより法華経の行者となって、正法を弘通(ぐつう)する」
と説きました。時に建長5年(1253)のことで、これは日蓮宗の開宗宣言でした。

師の道善は驚き、念仏信者であった地頭の東条景信は烈火のごとくに怒り、のちに日蓮を殺害しようとさえしています。日蓮は清澄寺を追われ、故郷の小湊を追放されたのです。
誕生寺

小湊誕生寺(写真提供・公益社団法人 千葉県観光物産協会)

しかし日蓮は、ひるむことはありません。鎌倉の松葉ヶ谷に草庵を結んで布教をはじめたのです。

鎌倉では念仏宗と禅宗が幕府の北条執権らの信仰を集めていましたが、日蓮は毎日のように街頭に立って、「辻説法」を行ないました。
「法華経のみが釈尊の真実の教えである。これを顧みない念仏者は無間(むげん)地獄に堕ち、これをけなす禅は天魔のたぐいである」
日蓮の折伏は、激烈をきわめました。聴衆の中からは嘲りや罵声、石などが飛んできましたが、日蓮の信念は変わるどころか、ますます強固になっていったのです。

辻説法は、激しい迫害にもめげずに続けられました。その間には従来の信仰に疑いを抱いていた人の中から、帰信する人たちが現われてくるようになりました。

のちに中山法華経寺をつくった富木常忍(ときじょうにん)や、日礼の法号を受けた曽谷教信(そやきょうしん)などです。また日蓮がもっとも愛した四条金吾も、禅宗から日蓮の篤信者になっています。
そして、ささやかですが、松葉ヶ谷の草庵でも法会が開かれるようになっていったのです。

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