禅の萌芽期に各地で修行した円爾
中国に渡って禅法を体得した円爾
京都と鎌倉を往還して仏法を広めた円爾
九条道家のもとで仏教の再生を求めて
東福寺の開山となった円爾弁円とは、
一体どのような人物だったのでしょうか―。
©悟東あすか
弁舌にたけた青年
円爾弁円は、駿河(静岡県)藁科で、建仁2年(1202)に生まれています。曹洞宗を開いた道元より2歳若いことになります。
円爾は、幼いときから非凡な才能があったといわれています。わずか5歳で久能山にある久能寺に入って天台教学を学び、15歳にして天台止観(明らかな精神で仏法を会得する法)をスラスラと説いたといいます。
18歳のとき三井寺で剃髪し、ついで東大寺で受戒しています。さらに京都で孔子と老子の教えを3年も学んでいます。
ところが、
「こうした机上の学問を学ぶことは、ただ画餅を食べているようなものではないか。体をとおした学問を体得しよう」
と反省しています。
円爾は臨済宗を伝えた栄西の高弟となる栄朝がいる上野(群馬県)世良田の長楽寺を訪ねて、禅と密教の奥義を究めています。
栄西は、鎌倉の寿福寺や京都の建仁寺で、禅だけでなく密教や天台を兼修していましたから、栄朝もその流れをくみ、それは円爾に受けつがれます。円爾はさらに久能寺や寿福寺で修行をかさねます。
寛喜3年(1231)、鎌倉の鶴岡八幡宮で仏教八宗の高徳が集まって講論が開かれたときのことです。
三井寺の頼憲という博識で弁舌さわやかな僧が、各講師を批判し論破して、それにかなう人はいませんでした。
円爾は、30歳という若さながら、頼憲に対して論戦を張って、少しも動じなかったどころか、論破したのです。
その学識から「三井寺の大鏡」とたたえられた頼憲も、ついに円爾の前に屈したのです。
円爾は、
「久しく『三井寺の大鏡』と響いたが、その鏡は鉄でなければ、おそらく瓦であろう」
と、痛烈に最後のとどめを刺したといいます。