日本仏教を形づくった僧侶たち

「鑑真」―日本仏教の確立に貢献した中国僧―

作家 武田鏡村
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日本僧の求めに応じて渡海を決意した鑑真
たび重なる苦難で目の光を失っても初志を貫いた鑑真
ついに六度目の密航を成功させた不屈の意志を持つ鑑真
東大寺に戒壇院を設立して、日本仏教の[いしずえ]を築いた鑑真とは、
どんな人物だったのでしょうか─。

©悟東あすか

戒師を求めたたび

天平[てんぴょう]5年(733)、9回目の遣唐使[けんとうし]が中国に派遣されました。

その一団の中に、奈良の興福寺[こうふくじ]栄叡[ようえい]普照[ふしょう]という二人の僧がいました。二人の目的は、中国にいるすぐれた戒師[かいし]を日本に招くことでした。

当時の日本では、過税にあえぐ国民の中には、勝手に髪を[]って僧尼[そうに]となる私度僧[しどそう]といわれる人がふえていました。

朝廷では、そうした私度僧の出現を防ぐためにも、より厳しい正式の受戒[じゅかい](出家のための儀式)の制度を中国から取り入れるとともに、その戒師となる高僧を必要としていたのです。

中国の洛陽[らくよう]に入った栄叡らは、まず戒律に詳しい大福先寺の道璿[どうせん]に渡来を求めて、許されると遣唐副使の船で来日させることに成功します。

しかし、これで任務を果たしたのではありません。戒師として日本に招く高僧が必要だったのです。

栄叡らは、戒師を求めて洛陽や長安[ちょうあん]で、9年近い歳月を過ごしたのです。もちろん仏教の勉学にもいそしんだのですが、つねに彼らの脳裡をよぎるのは、日本に招く戒師のことでした。

ある日、栄叡は思いあまって普照に相談しました。

「このままいたずらに時日を過ごすべきではない。なんとしても、日本に戒律を伝える戒師を探さなければならない」

「私もそう思う。次の遣唐使を待っていても仕方がない。戒師を探して、密航してでも、われらの手で日本にお連れもうそう」

そう決心した二人は、大安国寺の道抗[どうこう]の紹介で、揚州[ようしゅう]大明寺[だいみょうじ]にいた鑑真[がんじん]を訪ねます。時に鑑真は55歳でした。

鑑真は揚州の出身で、14歳で出家して、戒律と天台教学を学んだ中国仏教界の第一人者で、僧侶も俗人も鑑真を「受戒の大師」とあおぎ、その名声は高かったのです。

栄叡らは、はじめから鑑真を日本に招請したのではありません。彼の弟子のうちで、すぐれた戒師の推薦を求めたのですが、まったく予期しないことが起きました。

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