中国臨済宗の高僧であった隠元
日本に招かれて黄檗禅を伝えた隠元
徳川幕府の支援で宇治に萬福寺を建てた隠元
日本に明の文化と禅法を伝え、黄檗宗を形成した隠元隆琦とは、
いったいどのような人物だったのでしょうか──。
©悟東あすか
中国黄檗宗の復興に尽力
隠元隆琦は、中国の明朝末期の1592年に福建省で生まれています。日本では豊臣秀吉が君臨していた時代です。
6歳のとき、父親が消息不明になったために、畑仕事や樵仕事をして家計を助けます。16歳のとき、夜空に広がる「宇宙」の神秘を感じ、天地自然の根源を知るために仏典に関心をもったといいます。
23歳の春、三大霊場として有名な観音霊場の普陀山に赴いて、そこにある潮音洞で仏前に献茶し、人々に茶を供する茶頭をつとめます。それはわずか一年の経験でしたが、隠元にとっては出家する契機になったようです。
母親が亡くなると、29歳の隠元は、黄檗山の萬福寺にいる鑑源のもとで剃髪します。
黄檗山萬福寺は、臨済宗の開祖となる臨済の師である黄檗が出家した名刹でしたが、当時は荒廃していたようです。
そこで各地を遍歴しながら名師を求め、当代一の僧といわれる密雲がいる広慧寺で禅修行に励みます。
なかなか悟ることができませんでしたが、35歳のとき7日間、不眠不休で坐禅して、ついに悟りに達したのです。
その後、萬福寺の住持になって黄檗宗の復興に尽力したため、各地から多くの修行僧が集まり、一大禅林を形成するようになったのです。
黄檗宗の教義や修行法、儀礼などは、明朝期の中国臨済宗のかたちを取り入れています。
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