宗祖日蓮の純粋性を守った日奧
太閤秀吉の命令に従わなかった日奧
流罪になっても信じるところを変えなかった日奧
他宗には施さず、施しを受けずの「不受不施」の信仰を貫いた日奧とは、一体どんな人物だったのでしょうか──
©悟東あすか
太閤秀吉からの難題
豊臣秀吉は、京都東山の方広寺の大仏殿に、奈良の東大寺大仏よりも大きい大仏を建立し、亡き父母の供養のために法会を営みました。文禄4年(1595)9月のことです。
秀吉は、天台・真言・律・禅・浄土・一向(浄土真宗)・日蓮・時宗の八宗から、それぞれ百人の僧を集めるという大規模な法会を招集したのです。
これが「千僧供養会」で、千僧供といわれるものでした。
この法会への招請を受けた日蓮宗では、出席するか否かで激しい論議が起こりました。それというのも宗祖の日蓮が、
「念仏は無間地獄、禅は天魔、真言は亡国、律は国賊」
と他宗を批判して以来、他宗との交流は一切行なわないきまりになっていたからです。宗門のとりきめには、
「他宗の寺院や神社には参拝しないこと。他宗の信者から布施を受けない(不受)こと、他宗の僧や信者には何ものも施さない(不施)こと」
という他宗とは一線を画す「不受不施」の考え方が貫かれていたのです。しかし、この不受不施をたてにして出席を断れば、絶対権力者になっていた秀吉の怒りをかって、宗門が弾圧にさらされることもありえるのでした。
そこで京都の有力寺院の長老たちが、本圀寺で協議したのです。ところが意見が対立したまま結論がなかなかまとまらず、一座は重苦しい空気に包まれたのです。
そこで長老の一人である本満寺の日重が、次のような妥協案を出したのです。
「大仏殿における千僧供に出席することは、わが宗門の伝統からはできないことである。しかし、もし出席を拒めば、太閤(秀吉)の怒りをかい、諸寺は破却され、日蓮僧は追放されるだろう」
ここまでは、いく度もくり返された議論です。一同は日重の次の言葉を待ちました。
「しからば、いずれの道も捨てることができないのであれば、一日だけ出席して、翌日からは宗門の宗旨を申し出て、出席を断ったらいかがであろう」
一座には安堵のため息がもれました。大方の意見は、この日重の案に傾き、出席することは決定かと思われました。
それに敢然と異義を唱えたのが、妙覚寺住職の安国房日奥だったのです。
日奥が住職を務めた京都・妙覚寺
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